こんにちは、らくからちゃです。
最近空気が乾燥しているからか、火事のニュースを良く耳にするようになりました。またコロナ禍のせいで、心の潤い不足でもあるのか、ちょっとしたことでも炎上するようになってしまったのでしょうか。そんな思いでこの記事を読みました。
そんた必死で石を投げつけるようなこと言ったっけ?と火事場見物を決め込んでおりましたが、一生懸命火を焚いている人の主張を見ると「決定権の無い店員に雑な質問をして仕事を増やすな」ってとこでしょうかね。
関連記事を眺めていると、だいたい言いたいことを言ってくれた人を発見しました。
俺もね、何言ってんだこいつって思ってたんだけども。
意外と擁護の意見が出てるんだよね。何なら店員側から、客からそういう意見を言ってくれたら上に話を通しやすいとか言う人もいるわけ。
全然何言ってんだかわかんねえな。と思ってたんだけど、わかっちゃったわ。
想定している店の格が違う。
俺の想像の中で「環境に配慮した商品ですか」って聞かれてるのは、いなげやのおばちゃんとか、ファミマのおっさんとか、百均のにいちゃんだった。「そこに(環境に配慮した商品が)ないならないですね」以外に答えようある?時給900円で日銭を稼いでんのに、そんなくだらないことで時間とらせないでよ。って勝手に憤ってた。
でもそもそもトラウデン直美さんってのはもうお排泄物お嬢様で、父は京大の教授のドイツ人、母は元米国大使館勤めの帰国子女。本人は小学生から乗馬を嗜み、大学はFIT入試、いわゆるコネ入試で慶大に行くような、我々とはヒューマンステージが違う人間だったんだ。
そういう人が言う「店員」っていうのは、なんか一つのバッグに俺のデスクより広いスペースとって展示してある店で一人の客に人の店員がかしずいて回るような店のハイソサエティな店員であったり、スーパーであっても何かようわからん外国の見たことない野菜果物とかデリ(notおそうざい)とかが置いてあって店員も意識高くて何か国語も喋れたりするような、そういう「店員」なわけ。
ほぼ全文引用でスンマセン。
発言者側のクソお嬢様は、顔なじみでいつも気軽にコミュニケーションが取れる店員に話すことを前提とした一方、受け取った側は、自分が何を売っているのかすら分っていない時給労働者を想定するから話が食い違うんじゃねえの、と。
基本的な方向性として「想定する店員の差」があることには同意するんだけど、それが「想定している店の格」と一致するかどうかとは、ちょっと違う気がするんだよね。
資本主義とコミュニティー
例えば
「このキャベツはどこ産かしら?」「ああ、今日は茨城産ですよ!」
みたいな会話が成立するようなお店って、どんな"格"のお店を想像します?
都心部だと、高級な無農薬野菜専門店みたいなものを想像するのかもしれないけど、地方のアーケードの端っこに入ってる八百屋の客と店員の会話って言われても全く違和感ないですよね。
でもそれ、言っちゃ失礼ですが、別に「格の高い店」ではないですよね。
店員と顧客との会話が成り立つお店ならば、「最近テレビで環境がどうこうとかウルサいけど、あんたんとこの店じゃなんかやってんの?」と聞いても「うーん、これといって難しいことはやってないっすけど、やっぱ廃棄を減らすのが一番かな。というわけで、もう一品いかがですか笑」みたいなやり取りが成り立つんじゃない。
ただ「店員と顧客の会話が成り立つ」ようなお店は、効率化を追求する大資本によるチェーン店では難しいでしょう。店員は与えられた業務を効率的に動く部品であって、いつでも取り替え可能でなければならない。
だから「曖昧な質問をして店員を困らせるな」というのも、何かズレたツッコミのような気がするんだよね。定型業務をこなす単純作業者が相手であれば、マニュアルにない質問をするのは迷惑な話かもしえないけど、「大将、今日のオススメは?」みたいなふわっとした感覚での会話が成り立つ関係性を想定してるんだろうなあ、と。
例えば定食屋なんかで「この割り箸ってエコ的にはどうなんだろうね?」「いやあ、食中毒出しちゃいけねえから結構洗剤使うんだよなあ、そっちと比べてどっちがマシなのかねえ」「うーん、聞いたところによると...」なんて会話が生まれるのかもしれない。
エコは金持ちのエゴだというのも必ずしも当てはまらないんじゃないのかな。例えばさっきの定食屋であれば「いつも残しちゃうから、環境にも悪いし少なめで良いよ」みたいな会話から、少しだけ前進するのかもしれない。
有益な答えが出てくるのかは分からないけど、双方向のコミュニケーションが成立して議論が生まれる余地があるのであれば、たしかに何かが変わるのかもしれない。でもこれって現代においては結構贅沢な関係なんじゃねーの?
こうした「余剰」が許されるのは、富裕層が利用するような高級店か、あるいはいまや少なくなってしまった地域に紐付いた店舗でしょうね。前者は十分な金額を貰っており、後者は家賃負担がなかったり地域との関わりを持つためにやっている人も多くて成り立つのかもしれない。
チェーン店の労働は、規定された職務を行い生きるための糧を得るためだけのものかもしれない。一方、そうした世界とはまた別の世界があり、今回の一件は、資本主義の論理だけで動いている世界と、そうでない世界との間の溝のようなものも明らかにしたんじゃないのかなーと思うんですよね。
見方を変えれば、所得に関わらずハイソサエティな空間に居場所が持てる人と、持てない人との格差の問題でもあるんじゃないのかなあ、なんていうふうにも見えるんですよね。
居場所格差
我が家のエスプレッソマシーンは、職場の近所のロースターの豆を使っています。
いろんな店を回ってみたが、ここの豆が一番美味しくお求めやすい。(宣伝)
商品を選んだり、袋詰してもらっている間に、仕入れた豆のことや煎り方についての話をしながら、「じゃあこれも良いかなー」みたいな会話をしとるんですけど、ここのお店なら「環境配慮のことって、何かやってるの?」と聞きやすいかもしれない。
じゃあ同じように、店員さんと会話できるお店ってどれくらいあるかねえ・・・と考えてみたら、えーっとラーメン屋の大将と、あそこの店の人、あとあのお医者さんなら、うーん。と両手で数えられるほどしか出てこない。
店員との無駄な会話なんて不要。必要な情報は自分でググって手に入れるって人には、煩わしいだけなのかもしれない。でも昔も書いたけど、本当に価値のあるのは「ググって出てこない情報を教えてくれるひと」との接点の量じゃないのかなあと思うんですよね。
関係性の輪から切り離されて、社会との接点も少なくなり、「孤独」を抱えて生きていくしかない人たちと、普段から多くの居場所があり、様々な人とのコミュニケーションが出来る人たち。
前者の世界に住んでいる人たちには、煩わしい何かが増えただけだけど、後者の世界に住んでいる人にとっては、店員と消費者は連続した関係であり接点を増やすためのキーワードを一つゲットしただけなのかもしれない。
結局、前者の世界に住んでいる人たちには届かないメッセージなんですよね。なので後者の世界でよろしくやってもらうには良いのかもしれないけど、「コミュニケーションで解決しよう!!」だけでは社会を変えることは難しい。
「コミュニケーションを繰り返して、足掻いてもがいていけば末端からでも世界を変えていける」と信じてやまない層と、「俺達には何も出来ないんだから、上の方の連中でよろしく決めてくれ」諦観している層に分断されているようにも見える。
そこらへんを考えていると、かつてマルクスが看破した労働が人間から疎外されてしまった社会に住んでいる人たちと、そうでない人たち。その溝を、なんだか強く感じてしまったような気がいたします。
ではでは、今日はこのへんで。