ゆとりずむ

東京で働く意識低い系ITコンサル(見習)。金融、時事、節約、会計等々のネタを呟きます。

「情報弱者」とは誰のことか

こんにちは、らくからちゃです。

先日、こんな記事を読みました。

p-shirokuma.hatenadiary.com

内容に深く突っ込みたいというわけではなく、文章を読みながらそういや情弱、情報弱者と呼ばれるひとの位置づけって随分と変わって来たよねと思ったので、そんな話を書いて見たいと思います。まあ、半分以上、ただの乗っかりです。

情報弱者今昔物語

「情報弱者」という言葉は、わたしが初めてインターネットに触れた1990年代後半、いまから約20年前には既に人口に膾炙されていました。そのときはデジタルデバイド(IT機器を使いこなす能力)という言葉とともに語られ、主にITを利用する能力の無い人に対して投げつけられる言葉でした。

価格コムを使えば、日本中で一番安く買える店が探せるのに、アイツらときたら、未だに近所の電気屋のオヤジさんからボッタクリ価格で買わされている(藁)

んまー、そんな感じでて使われていた記憶があります。

そこから時代が進み、多くの市民がインターネットを利用するようになり、いわゆるWeb2.0時代が訪れます。ネット空間上には多数の人々が発信した情報で溢れるようになりました。すると今度は、ネットリテラシー(情報ネットワークを正しく利用できる能力)という言葉とともに語られるようになりました。「情報弱者」とは、簡単にデマに流される「嘘を嘘と見抜けない」人たちをも含意する言葉となりました。

それから更に時が下った今日においても、また少しこの言葉の意味が変わりつつあるような、そんな感じを受けているのですが、皆さんいかがでしょうか。ネットを使いこなす技術の差や、ネットリテラシーのレベルに関する溝は未だに大きいと思うのですが、それ以上にもっと違うところで「情報の格差」って広がってるんじゃねえの?そのモヤモヤを言い表す方法は無いんやろうかと、首をひねったところ、こんな文句が浮かびました。

古くから言われているように、ネットは自ら行動して情報を引き出す必要があります。今日に至って、情報面での格差って、情報を集めようと思うキッカケや、そこから行動に移そうと思える環境の格差って、すごく大きくなってるんじゃないのかな。

言い換えると、情報弱者とは「ネット以外の情報源が乏しいひと」のことなんじゃねえのかなあと思うんですね。

キッカケ格差

確かに、金融や通信などの現代の巨大資本の多くが、「養分」と呼ばれる人たちの存在により維持されている面はあります。明日を生き延びるための大事な栄養素を、保険会社や証券会社、通信会社に吸い取られないための情報は、非常に重要です。

しかしそうした話は、その気にさえなれば、ググればいくらでも懇切丁寧な解説が出てくるわけです。多少の技術力や読解力が求められるケースもありますが、そこで大きな格差が生じる例は、かなり小さくなっているでしょう。大きな差が生じるのは「その気にしてくれる何か」がどの程度身近に、豊富に存在するかじゃねえのかな、と。

例えば、健康や病気に関する知識自体も重要です。それと同時に「なんか体調悪そうだよ。病院行ってきなよ」と言ってくれるひとの存在、知識を行動に繋げる何かの有無の差って、結構大きな格差を生み出してるんじゃねえの?と、感じるんですね。

格安SIMなんかも「存在すら知らない」というよりは「なんとなくキッカケが無くて踏み出せない」みたいなひとが、それなりに居るわけです。彼らに対し、"主体性が欠如している"と断じるのは簡単です。でも皆さん、ゼニ以外の話、勉強とか、健康とか、趣味なんかに関しても考えても同じように言えます?

キャリアアップして年収を増やすためには、どんな勉強をしたら良いの。健康的な生活を過ごすためには、どういう食生活にすべきか。もっと人生を充実させるためには、どんな遊びがあるのか。全く未知のものに対しても、アンテナを高く掲げて生活をするのは、割りと精神力が必要です。

そこで「そんなに辛いなら仕事を変えてみたら?」と言ってくれるひとや 、周囲に転職してハッピーになった人の存在が重要になるわけです。「健康のためにボルタリング始めてみた」人や「最近ミュージカルにハマってる」人なんかも、未知の世界への第一歩を軽くします。

こうした「キッカケ」は、ネットで得られないわけではありません。でも、広告やキュレーションメディアで

  • 年収100万円アップを実現した転職の秘訣
  • ボルダリングを始めてみたワケ
  • ミュージカルの魅力について語ってみたい

みたいなヘッドラインはよくみます。

もちろん興味関心のレベルが一定ラインを超えていたらクリックされるんでしょうけど、融通無碍に行われる「雑談」のような、双方向での対面のコミュニケーションと比べたら興味関心のレベルそのものを引き上げてくれる効果って圧倒的に弱くないですか?

人生をハッピーに過ごすためには何が必要か

核家族化・独居化が進み、職場においてもフルタイムでの無期雇用は減少し、地域との絆なんてとうの昔に過去の産物になりつつある現代おいて、自分から情報を集めて行動を起こせる環境の格差って、結構大きくなってる。そんなことを、ひしひしと感じるわけです。

前に、こんな記事を書いたことがありました。

一緒に生活するようになって、毎日の生活はずいぶん楽しくなった。前にも書いてみたけど、特に一番大きかったのは『目の数と耳の数が倍になる』だった気がする。

単純に、情報源が増えた、というよりも『興味の幅』が拡張されたことが良かったかも。お互いが何か新しいことを始めれば知識と世界が広がるし、今まで食べたこと無かったものを『こんなうまいものもあるのか!』といいながらつつき合うのも楽しい。毎晩、修学旅行のときみたいに、今日あったあれこれを話しながら、ベッドに潜り込むのもまた楽しい。

結婚して良かったこと 〜病める時も健やかなる時も〜 - ゆとりずむ

20代のうちは、仕事を覚えることや、自分の自由に使えるお金を得て初めて出来るようになったことが多く、特に何も考えずに生きていてもそれなりにハッピーになれました。でも30を過ぎてからは、ただ無為に過ごしているだけじゃ、何も楽しいことは起きないんですね。そういう意味においても、結婚してパートナーが居ることって、面白おかしく生きていきたいなら、重要なポイントなのかもしれません。

「お金よりも大事なものはたくさんある!」なんて、赤面せずに言えるほどのロマンチストでは有りませんが、ひとまず30で1000万ほどオゼゼを溜め込んで気がついたこととして、お金をどうやって殖やしていくかよりも、どう上手に使っていくのかのほうがずっと難しい気がするんですね。

www.yutorism.jp

好きなタイミングで自由に使えるお金があることは、それ自体に大きな価値があります。でもまあ、たかだか1000万円ほどお金が余計にあったところで、人生たいして変わらないんですよ。数年早めにリタイアできたり、ちょっと良い家を買えたり、子供の学費の心配が減ったり、せいぜいそんな程度の金額です。

それよりも、そのお金を2倍、3倍の価値のある何かに使っていくための情報こそ重要なんだろうなあと思うのですが、それが得られるかどうかは、かなりその人の置かれた環境に依存します。特に、余計な人間関係を削ぎ落として生きてきた人にとってはその余力が無いように見えるんですね。

改めて考える無駄の効用

子供の頃、祖父母の家には、定期的に日本生命のオバちゃんがやってきていました。広く知られている通り、オバちゃんたちのお賃金を捻り出すため、保険というのは基本的に期待値がマイナス、平均すると損をする契約です。

ただ最近になって、祖母と介護保険の制度について話していたとき「昔は、こんなお金の話も、保険のオバちゃんが相談にのってくれていたのに」とボヤいていたのを見ると、なんやかんやであの無駄には意味があったのでしょう。少なくとも我が家にとって、あの保険の外交員は冠婚葬祭の相談相手であって、簡易FPであって、お金の愚痴聞き役だったんです。

しかしどうやら世の中は、こうした余剰を受け入れる余地は少なくなって来ているように見えます。そして余剰を失った人たちが、あたらしい「情報弱者」になりつつあるようにも見えるんです。

「情報弱者」とは侮蔑的な意味合いを持つ言葉ではありますが「ネットさえ使えれば社会関係資本の格差を乗り越えられる」といった、ある種の希望を含んだ言葉でした。ところが、ネット無しでは考えられない世の中になってみると、むしろ環境による格差が拡大される結果になっているのではないでしょうか。

こんな世の中を生き抜く術として、多少無駄に思えても、むしろ無駄に思える関係こそ、しっかり水やりをしてあげて維持することや、接点を増やすための話題につながる何かを蓄えておくことの重要性って、以前にもまして上がってるのやもしれません。

わたしにとってはこのブログがその何かのひとつですし、誰かにとっての新しい知識との出会いのキッカケとなることを願って止まない次第でございます。

ではでは、今日はこのへんで。