ゆとりずむ

東京で働く意識低い系ITコンサル(見習)。金融、時事、節約、会計等々のネタを呟きます。

『背水の陣』の本当の意味は『退路を断って死ぬ気でやれば勝てる』という話ではない

こんにちは、らくからちゃです。

毎週日曜日は、真田丸とマスケティアーズを見るのが楽しみになっています。いやあ、今週も真田丸良かったですね。特に、真田親子の『井陘(せいけい)の戦い』をお題にした軍略談義。いわゆる『背水の陣』で有名な中国の合戦ですね。

一般には『退路を断って死ぬ気でやれば勝てる』といったニュアンスの慣用句としても使われることの多いこの言葉。でも真田一家の話を聞いていると

  • 背後の心配をする必要がなくなるため、戦力を前面に集中させることが出来た
  • 敵を油断させて城の外におびき寄せることが出来た
  • その隙を突いて城を乗っ取ることが出来た

といったおもしろいトークが出てきます。聞いていると、興味が湧いてきましたので、色々と調べてみました。

楚漢戦争

 井陘の戦いは、紀元前204年に秦王朝滅亡後の覇権をめぐり、楚の覇王項羽と漢王劉邦が中国の覇権をかけて戦った『楚漢戦争』の中で起こった戦いの一つです。

中国の歴史といえば、日本では三国志が人気がありますが、これはその400年以上前の時代。日本は弥生時代が始まったころのお話です。

項羽と劉邦 [ノーカット完全版] スペシャルプライスコンパクトBOX [DVD]

項羽と劉邦 [ノーカット完全版] スペシャルプライスコンパクトBOX [DVD]

 

今回のお話の主人公は井陘の戦いで『背水の陣』を使い、2万の軍勢で20万の敵を打ち破ったとされる韓信。彼は若い頃、貧乏で品行も悪く、定職につくこともなくぶらぶらと生活をします。その頃のエピソードとして有名なのが『韓信の股くぐり』ですね。

その後、項羽に仕えたものの、進言が聞き入れないことに失望し、劉邦の元へとやってきます。そこで、後に漢の宰相となる蕭何に『国士無双』と評され、やがて重用されていきます。

井陘の戦い

項羽と劉邦は、共に秦の皇帝に対して反旗を翻した同志でした。一度は劉邦が、秦の首都である咸陽を制圧しますが、圧倒的な戦力を持っていた項羽にその座を譲ります。その後劉邦は、項羽によって辺境の地漢中へと左遷させられます。

項羽は降伏した王族を皆殺しにしたり、自分の息の掛かった人たちを優遇したりしたため人心は離れていきます。それを見た韓信から『あいつは皇帝の器じゃねーよ』といった旨の進言を受け、劉邦は項羽と戦うことを決めます。

そこで劉邦が本隊を率いて項羽と戦い、韓信が別働隊で諸国を平定するという戦略を採り、韓信は魏の国を討ち、次に趙の国へと向かいます。

その当時*1の地図がこんな感じ。趙は北京や天津などのある河北省ですね(とはいえ、邯鄲から北京までって400km以上あるみたいですけど)。

f:id:lacucaracha:20160905214927p:plain

(出典:公元前380年_互动百科

この時、韓信に付き従ったのは、戦下手有名な劉邦に手勢を送った結果2万人とちょっと。迎え撃つ趙の軍勢は20万人だったと言われています。(実際には半分くらい?)

背水の陣とは何だったのか?

韓信は、山脈の間を通って敵の本拠地を目指します。趙の武将の李左車は、そのことを察知し、宰相の陳余に『この隙を打つべし』と進言します。それに対し陳余は『敵は少数であり恐れるに足らず。堂々と迎え撃たなければ他国から弱腰と蔑ろにされる』と却下します。

これを間者を通して知った韓信は、そのまま軍を進め井陘の地に到達。ここで韓信は、騎兵隊2,000を別働隊とし、敵の城へと向かわせ、本隊は川を背にして陣を築きます。これが『背水の陣』ですね。

f:id:lacucaracha:20160906000118p:plain

(出典:感心? 奸臣? 韓信のこと! ② ( 歴史 ) - 死ぬまで生きよう! - Yahoo!ブログ)

基本的に陣地というのは、山が後ろ、川が前になるようにするもの。これをみた趙の軍隊は、『あいつら戦のことが何も分かっていない素人だぞ』と攻撃を仕掛けます。

攻められた韓信は、川沿いへと退却していきます。それを見た趙軍は、一気呵成に攻め落とそうと城の守備隊まで繰り出します

そこを突いて、別働隊の騎兵隊で一気に敵の城を占拠します。

川を背に、不退転の決意で戦う韓信の本隊によって想定外の損害が生じた為、趙軍は体制を整え直すべく、城へと戻ろうとします。そしてその時、城にはためく大量の漢軍の旗を見て『漢の大軍が攻めてきたのか!?』と大混乱

その中で、本隊・別働隊の両面から挟撃を受ける形となり、趙軍は総崩れとなりました。

背水の陣の狙い

こうやって戦い全体を見てみると『背水の陣』は単に『退路を断って死ぬ気でやれば勝てる』なんて精神論でも何でも無く、全ては少数の手勢で大軍に勝つために綿密に練られた高度な戦略であったことがわかります。

まず侵攻軍である漢軍は、城による土地の利のある趙軍に対し、非常に不利な立場にあります。しかし逆に、城を奪い取ってしまえば、形成は逆転します。問題はどうやってそれを実現するのか?

趙軍がメンツに拘って事前に奇襲をしなかったのは、今の時代の感覚で考えれば不思議な事ですが、当時は強大な秦朝が倒れてまもなく、圧倒的優位を見せつけるのは外交上重要な戦略。加えて、中途半端に攻撃して潰しきれず、戦が長期化するのは、守備側としても避けたかったのではないでしょうか。

となれば『相手を徹底的に潰せるチャンス』は敵も無駄にはしないはず。そういった判断も含めて、『背水の陣』は相手方の戦力を全量投入させるようにした演出の一つだったのでしょう。

また『おとり』に重要なことは、少しでも長く相手の注意をひきつけることです。

背水の陣は、『士気を高める』だけでなく川を砦とすることによって、背後の心配を断つことが出来ます。これは敵に相対する面積を狭くすることにも繋がり、少数の手勢を有効活用するためにも繋がったはずです。

更に、人数が増えれば増えるほど、指揮系統を行き届かせることが困難になり、想定外の事態に弱くなります。自分たちの城に敵の旗がたなびくという驚天動地の事態に、規律は一気に崩壊したことでしょう。

こうやってみると、その全てが『勝つべくして勝つために』とられた戦略であったような気がします。

戦略とは精神論ではない

ここまでが、色んな物を眺めながらまとめた『背水の陣』についての個人的なまとめ。ここからが個人的な感想。

おいら歴史も軍事も専門家じゃないので、どこまで本当なのかはよく分からない。つーか、趙軍の20万はいくらなんでも盛りすぎじゃね?この20万って数値も、資料によって数値はバラバラだしさ。

ただ色んな物を読んでいて思ったことは、何が真実かは分からんけど『戦略とは精神論では無い』ってことだけは確実に言えるんじゃね?

ずーっと前から『背水の陣』って言葉には疑問があったのね。普段やる気のない人たちのお尻に火を付けて頑張らせたところで、日頃の鍛錬が足らない分がっかりな結果になるんじゃないの、と。

例えば『このプロジェクトの納期は全員が本気を出せば達成できるようにストレッチ目標として従来の半分にしておいた!』とか言われたらどう思う?まあ転職活動始めるよね。ほんで、そういったプロジェクトはみんながついていく気をなくして破綻するわけだ。

前のプロジェクトでさ、あるチームの進捗がめちゃんこ悪くて『なんでやねん』とヒアリングしてみたら『きっと破綻すると思って手抜きしてましたわ〜』と言われてがっくりしたこともあったな。

結局、人間がついていくのって『この計画ならなんとかなりそうだな』と思える何かか、あるいは『この人だったらなんとかしてくれそうだな』って人なんじゃないの。歴史のどこにも残っていないかもしれんけど、韓信ってそんな人だったんじゃない?それこそがまさに『リーダーとしての資質』って言われるものだと思うけどさ。

背水の陣ってのは、いろんなことを滅茶苦茶考えた結果うまれたもので、『退路を断って士気向上』っていうのは、その一面にしか過ぎなかったんだと思う。頭空っぽに『よーし、今回は背水の陣で頑張ろう!』なんていう風に使っていい言葉じゃない。つーか

作戦名『みんながんばれ』は戦略じゃねえよ。

世間一般の人が『退路を断って死ぬ気でやれば勝てる』的な意味で『背水の陣』って言葉を使ってる時は『なんかプロジェクトマネジメントするの面倒くさくなっちゃったから、頑張っといてよ』って時か『たまたま上手くいっちゃったけどなるたけ美化しておきたい』時がが多い訳だけどさ、そんな風に使うのは、韓信さんは感心せんと思うな〜。

にしてもこの辺の中国の歴史はあんまり知らないけれど、もっと勉強してみたいね。あとこれからの真田丸の展開で、このお話がどう使われていくのかも楽しみ。

ではでは、今日はこの辺で。

項羽と劉邦 (上) (新潮文庫)

項羽と劉邦 (上) (新潮文庫)

 

 

*1:厳密には秦朝が中華統一をする前の紀元前380年頃の地図だけど、『趙』の代替な位置の参考のため掲示