ゆとりずむ

東京で働く意識低い系ITコンサル(見習)。金融、時事、節約、会計等々のネタを呟きます。

選挙に行こうよ、見知らぬ誰かのためにもさ。

1987年、昭和62年生まれ32歳。いい加減、「若者」というカテゴリに入っているのかどうか疑わしくなってきた。ただ世間様から投げかけられる言葉に耳を傾けると、未だ嘴の黄色い若造と思われているようだ。

街は明日に迫った選挙一色だ。

ネットやテレビにも各政党・候補者を始め、有象無象の人々のものまで多種多様な声で溢れている。具体的な政策に対するものだけでなく、選挙そのものに関する想いもだ。

中でも、こうした若者への投票を促すメッセージを目にすることが頓に増えてきように思う。


若者よ、選挙に行くな

若者は投票率が低い。このままでは選挙に行く高齢者中心の政治となり、若者は政治的に虐げられる。自分たちの権利を守り、利益を手にするために選挙へ行こう。そうした主張を幾度となく目にしてきた。

まったくもってフザけた話だ。

社会の構造や高齢者が、ではない。対立を煽り憎しみを抱かせるやりかたが、だ。

 

こうした主張は、若者の将来を憂いて投票所に足を運んでくれている高齢者や、自分の利害を超えて一票を投じようとしている若者に対して大変失礼な話である。それと同時に、むしろ若者が選挙に参加する意欲を削ぐことにも繋がりかねない。

数の論理を押し通そうとするのであれば、そもそも母数の少ない若者に勝ち目はない。

投票率が上がることで、政治家も若者の声を汲み取るようになる。そんな意見も良く耳にするが、果たしてそうだろうか。

『年寄りから金を取り上げて配れ』『耄碌老人からは選挙権を取り上げろ』

そんな主張ばかりが大手を振ってまかり通るようになれば高齢者は危機感を覚えるだろう。そして彼らに阿る候補者ばかりが議席を得るようになるだけではないだろうか。

また損得で選挙への参加を呼びかけたところで、個人レベルではこれほどまでにコスパが悪いシステムはない。それぞれ候補者の政策に耳を傾け、投票所まで足を運ぶのにかかる時間に見合う収益が得られる可能性は殆ど無いだろう。

そして仮に、当人の利益に直結するような政策が掲げられていたからといって、自身の一票で白黒が決まることもほぼ無いだろう。

 

もし少数派が多数派に搾取され、一方的に被害を被っていると考えるのであれば、民主的なプロセスは役にたたない。必要なのは、選挙に行くことではない。選挙をボイコットし、自分たちの選挙を行い代表者を立て、武装蜂起の上、独立自治を勝ち取ることだ。平たく言えば革命だ。

機関銃や戦車など無くとも、身近に手に入るものでも都市機能を麻痺させ、多数派に多大なる被害を与えることはそう難しい話でもない。でも誰もそんなことをしたいとも、巻き込まれたいとも思わないだろう。

民主主義とは、実に危ういバランスの上に成り立っている仕組みだ。

多数派がその気になれば、少数派の権利など、いとも容易く粉砕される。それを食い止めるのは、有権者同士が共通の利益を求めていることと、互いにそうであると信じ合う気持ちだけだ。

 

今回の選挙では、選択制夫婦別姓が一つの争点にまでなっている。

選択制夫婦別姓の導入が直接利害に関わるひとは相対的に少数だろう。どちらでも大して困らないという人も多いだろうし、既に結婚して姓を変えた人や、それこそ高齢者にとっては、無関係である場合が多いだろう。

むしろ何不自由なく過ごして来られた人の中には、政治的リソースを奪われることで不利益だと考える人だって居るだろう。

それでも我々は、この問題が争点となるまで議論を進めて来たのだ。

情けは人の為ならず。回り回って自分に返ってくる。そう考えているひともいるかも知れない。でも多くの人がもっと簡単に、純粋に、「困っているひとを助けたい」という気持ちから行動を起こして来たのではないか。

 

過酷な環境で働く外国人労働者。どこにも助けを求めることの出来ない虐待されている子供。彼らには選挙権すらない。民主主義が投票をしたひとだけの権利を保護するのであれば、彼らには救いなんてどこにもない。

こうした不幸な人たちを生み出してしまったのも僕らの民主主義ならば、彼らを救おうとしているのも僕らの民主主義だ。

それが如何に政治的な影響力を持たない少数派であったとしても、彼らの苦境のために心を砕いてきた人たちの想いで、いまの社会ができてきたのでは無いだろうか。

 

PSYCHO-PASSというアニメの中のワンシーンに、こんなセリフがある。

法が人を守るんじゃない。人が法を守るんです。

これまで悪を憎んで正しい生き方を模索してきた人々の想いが、その積み重ねが法なんです。

それは条文でもシステムでもない。誰もが心のなかに抱えている。脆くて掛け替えのない想いです。怒りや憎しみの力に比べたらどうしようもなく簡単に壊れてしまうものなんです。

だから、よりよい世界を作ろうとした過去全ての人たちの祈り。それを無意味にしてしまわないために、最後まで頑張って守り通さなければいけないんです。諦めちゃいけないんです。

全ての犯罪を見通し、完璧な裁きを下すシビュラシステム。

完全無欠と信じられていたそのシステムにも誤りがあることが分かった。果たしてそのときどうすべきか。不完全で、暴走する可能性のあるシステムなど捨て去るべきではないのか。そう問われたときの答えである。

どれだけ精巧に作られていたとしても、人が作ってきたものである以上、どこかに綻びは生まれてしまう。

でも信じるしかない。怒りや憎しみを乗り越え、正しい社会を作ろうとしてきた先人たちの血と汗の結晶を。それが出来ないならば、また暴力が支配する時代にまで逆戻りするしかない。

そしてこれからも、多くの人がより良い社会を作るために、より正しい法を守り育てて行くことを信じるしか無いのだ。

 

多様化する社会では、誰もが少数派になる可能性がある。直接利害に関わらない人からの助けがなければ、前に進めない時代なのだ。

民主主義は、より一層、自分以外の有権者が善良であることを信じるしかない。だからこそ我々は、互いの声に耳を傾け、手を取りあい、共に歩める仲間であることを示す必要がある。

どうやって?

選挙に行くんだ。見知らぬ誰かのためにも。

もちろん善良な人ばかりでもないだろう。でも考えてみてほしい。半分近くの人が選挙に行かないこの時代に、仮に残り半分が自分たちの利益だけを考える人たちだったとしても、別の半分を巻き込むことができれば、より良い道を進むことができるんだ。

国会で行われている議論について調べるのも、身近な人のために声をかけるのも、考えたことをSNSやブログに書くのも、デモに参加するのも、そして選挙に行くのも全てが民主主義だ。

自分の権利を守り、誰かを打ち負かすために行くんじゃない。

見知らぬ誰かの手を借りるために、そしてそこで助けを待っている見知らぬ誰かに手を貸すために選挙に行くんだ。

過去の多くの歴史が証明しているように、ひとは誰かのために戦うときこそ強くなれる。ひとりひとりが違うから、ひとりひとりの助けが必要なんだ。あなたの一票はただの数字じゃない。誰かのために、忙しい時間を割いて考えてくれた証なのだ。だからこそ他の誰でもない、あなたの一票が欲しいのだ。

無論、人それぞれ意見が異なるのは当然だから、私と同じ候補者に入れて欲しいとも思わないし、別の考え方から選挙に行く人も居るだろう。それを批判するつもりなど微塵もないし、むしろ最後まで駄文乱文に耳を傾けていただけたことへの感謝の気持ちしかない。

ただ頭の片隅に、こんなことを言っていたヤツも居たなあと留めておいていただければブロガー冥利に尽きる次第である。

 

らくからちゃ