24年経っても、多くの神戸っ子にとって1月17日は特別な日だ。
もっとも私は、当時小学2年生だったし、被害の軽い神戸市西区に住んでいたので、深い思い出はない。震災当日も呑気に幼馴染と学校へ向かっていたところ、電気が止まってつかなくなった信号のもとで交通整理をしていた教師に「何やっとんねん!はよ帰れ!」と追い返されたくらいだ。延々と続く安否情報に飽き飽きしながらも、少しでも明るく振る舞おうとしてくれた大人たちの姿はぼんやりと記憶に残っている。まだ当時は、本当の苦労は知らなかったのだ。
震災のことに関して、むしろ記憶に残っているのは、高校生の時分にインターンシップという名目で遊びに行っていた会社で受け取った「災害対応マニュアル」と書かれた小さな冊子のことだ。
地場のシステム屋が、リクルーティングと宣伝を兼ね社長の気まぐれで夏休みの期間に始めたものだったが、初日に「手の空いたときにでも読んでおいてね」とID・パスワードと共に配られたその小冊子のことは、他のどんな教材よりもよく覚えている。
災害が起こったときの連絡手段から、社内の備蓄の在り処、顧客との対応の仕方に、ボランティア参加時の心得など実に読み応えのあるテキストだった。オフィス近所のハザードマップがなければ、売り物と見間違っていたかもしれない。ケーキ屋の受注管理システムを構築する作業の傍ら、コラムやTipsなども含めて楽しく読み終えることができた。
この小さな冊子に込められた大きな思いは知るのは、数年経ったあとのことだ。
生きた資料の作り方
机を並べてケーキのメニューに頭を悩ませていたメンバーのうち一人は、見事当初の目的を果たし(?)同社の禄を食むようになっていた。
正月に地元に帰ったときに久々の再開を果たし、その後の四方山話や仕事の話に花を咲かせた。アレコレ話をする中で、ふと「そういや災害対応マニュアルってよくできてたけど、まだ使ってるの?」と聞いたところ、帰ってきたのは「使ってるもなにも、俺がいま作ってるよ」という答えだった。
てっきり専門の部署が作っていると思っていたあの小冊子は、社内有志で作られた防災委員会が毎年改訂版を作成しているそうで、友人もその作成に携わっていた。防災委員の任期は1年。常に担当者を入れ替え、中身を理解するメンバーをひとりでも増やすことが狙いだという。
また、ただ資料を新しくするだけでなく、毎年1月17日を「防災の日」とし
- 災害対応マニュアルの読み合わせ
- 避難訓練
- 社内システムの点検
を行い、きちんと機能するものかどうかの確認しているとのことだった。
「どんなに良いマニュアルを作っても、使われないものじゃ意味がない。だから各職場から一人は委員を出してもらって毎年内容を精査する。そして資料はいつでも読める形で手渡し、委員を中心に読み合わせをする。それが大事。」
という言葉には、納得させられるものがあった。
誰がために被災地へ行くのか
マニュアル改訂作業の話の中で興味深かったのが、ボランティア参加者の役割の大きさだった。彼のフェイスブックを見たところ、彼自身も災害ボランティアに平日から参加していたようだったので「ボランティア休暇みたいな制度があるの?」と聞いてみた。
「うちって、ボランティア休暇って制度はないんよね。だいたい遊んでるわけでも休んでるわけでもないし。上司に事前の申請は必要だけど、労働はしてないけど欠勤もしてないものになる。つまり申請さえ通れば無制限の有給休暇と同じ。」
もっとも現実には何十日も休むひとはいないけどね、と付け加えながら、交通費などの実費に関しても防災委員会の予算から助成する制度があることも語った。また防災委員会の活動自体も、業務時間内に行う業務外活動という位置づけらしい。随分と手厚いんだね、と言ったところ、
ボランティアへの参加を推奨するのは、人助けってだけじゃなくて、いざ自分たちが被災者になったときにどう行動すべきかの訓練になるんだよ。災害対応マニュアルを作るときにも、実際に被災地で経験してきたことがかなり反映されているんだよね。
と返され、深く納得してしまった。
大規模な災害ボランティアに参加するひとがいる場合、全社メールで一緒に参加するひとの募集が呼びかけられる。そして帰ってきたあとは、体験記が全社サイトで配信されるとともに、自社のマニュアルにも活かせそうな内容があれば反映する。そんなサイクルを回してきたそうだ。
体験記の中で、印象に残っている物があるという。
東日本大震災発生後、まだ肌寒さを感じる東北に、当時の専務と若手社員3名で避難所の支援に向かったときのことだ。
若手社員一同は奮起して向かったものの、現場は大混乱の状態で、混迷を極めていた。様々な分野のプロが活躍する中、電気も電波もロクに無い中では専門性を発揮するチャンスもない。そう肩を落としていた中、専務が声をあげる。「私たちは神戸から来ました。ちょっとだけ話を聞いてください」。
周囲の視線を一点に集める中で持ってきた模造紙いっぱいにポスカで、物資の受け入れや安否情報の確認などの諸々に関するフローを書き示していく。張り出されたチャート図を前に、混迷を極めていた作業はどんどん効率的に進んでいく。
そのとき語られた「紙とペンさえあればシステムは作れる」という言葉は、いまも語り草になっているそうだ。まさに要求分析から業務設計、導入支援までその場で行ったわけだ。我々だからこそできることがある。そのことは多くの社員を勇気づけ、災害ボランティアに参加するモチベーションとなると同時に、続けてきたことの正しさを証明するものでもあった。
明日のために続けていくこと
今日は朝から、避難ルートの確認をしたり、社内システムの異常時切り替えが機能するかテストしたりしてから期限が近づいた備蓄食料を昼飯にしたりしていたそうだ。半日かけて作業が終わったあとは、自宅の点検をしてもらう。社内だけでなく、自宅も含めての防災だ。
この活動の主体は、あくまで防災委員会と従業員だ。
偉い人たちも、他の参加者と同様に、災害対応マニュアルを読み、避難訓練に参加し、非常食の味比べを行う。1月17日だからといって、エモいツイートをして社員のバイブスを上げるようなことはしない。むしろ敢えて、そういう行為は避けてきた。あくまで実際に行動する人が主体でなければならない。だから余計な口出しをすることはしなかった。
代わりに、同社の経営層が24年間続けてきたことがある。それは、受注が殺到しているときも、案件が炎上していることも、毎年一回のこのイベントを行うことだけは、死守することだ。
全社員が参加するこの活動にかかるコストは決して安いものではない。それでも口は出さずに金だけ出し続けてきたのは「安心して働ける職場をみんなの手で作ること」の価値を信じてきたからだ。
同社のマニュアルは、こんな言葉から始まる。
「震災のときには、多くの人に助けられました。今後またくる災害のとき、その時の経験を活かし、助けてくれたすべての人への恩返しがしたい。そんな思いでこのマニュアルは作られました。」
その思いは変わらない。
大切なことは、涙を流して「しあわせ運べるように」を歌うことじゃない。今日も、明日も、地震にも負けない 強い絆をつくるために、やり方を変え続けていくことだ。もう数年前から、新入社員はすでに震災後の生まれだ。彼らの心にも届く方法を考えなければならない。
社内的には、安否確認の方法が電話連絡から(動くときは、だそうだが)内製したウェブサービスに変わったり、また帰宅困難者など、新たに気づいた問題は毎年のようにある。古くなった情報もあるため、改訂内容には事欠かない。
我々はシステム屋だからね。周囲の環境の変化にあわせて、作ったシステムを愚直にアップデートしてメンテナンスしていくだけだよ。去年は、水害関連の知見が随分と溜まったよ。
と旧友は語った。
きっと来年も再来年も、会社が続く限り、毎年のルーチンとしてこの作業は続けられるのだろう。その道程に終わりはない。