時が経つのも早いもので、年明けから見続けてきた『真田丸』も今日が最終回だそうだ。
大河ドラマは毎シリーズ欠かさずに見る人もいるようだが、わたしの場合は気に入った時代や主人公をテーマにしているときだけ見てきた。『平清盛』を最後に、ここしばらくは遠ざかっていたが、堺雅人さんが主演とのことで興味を持った。そこまで熱心なファンというわけでもないが、はじめて興味を持ったのが『新撰組!』が本作と同じ三谷幸喜作品というのも何かの縁かもしれない。
最終回を前に、過去の話を振り返っていってみると、吉田鋼太郎さんが信長の役を演じていたのが随分と遠い過去のようだ。ただ、登場人物を振り返っていると、存在感の無かったひとなど、ひとりとして居なかったようにも思われる。
強烈なインパクトのある演出には、様々な評価なされた。『時代考証には問題ないのか?』『時代劇をここまでドタバタコメディにしてしまっても良いのか?』そんな声も多かった。今までにない演出への戸惑いも多かったのは事実だが、広く知られていない事実や、軽く見られがちなポイントをきちんと取り上げた結果である例も多かった。
SNS時代の大河ドラマ
個人的に象徴だったのは、第五回の伊賀越えのシーンだったように思う。
この回を境に『歴史をこんな風に見るのは初めてだ』『コミカルだけど意外ときちんとやっているのではないか?』といった声がネット上では広がっていった。『三谷幸喜、やるじゃねえか』そんな声も耳にするようになった。SNSを通して、時代劇についての考察がここまで広く行われるようになったのは、わたしの知りうる限りでは初めてのように思う。
『スタジオパークからこんにちは』という番組の中で、三谷幸喜さんは『叩かれていたときも応援してくれる視聴者のために頑張ろうと思った』といった旨のことを言っていたが、視聴者とつくり手との間に一体感のある作品だった。
物語の中には、多くの伏線が仕込まれていた。最後の最後まで視聴者にとって、謎だったのが、長澤まさみ演じる本作のヒロイン『きり』の存在だろう。
高梨内記の娘『きり』
きりのモデルは、真田昌幸の家臣、高梨内記の娘であるとされている。彼女は真田信繁の側室となり、二人の子供をもうけたともされるが、歴史的にはほぼ無名の人物だ。
誰にとってもズバズバと言う。それも現代語調で、目上の者に対しても"タメ口"であったり、嫌味なセリフも多い。一部の視聴者からは『長澤まさみを出したいからって、こんな役必要か?』との声も上がった。
果たして、『きり』は何のために必要だったのだろうか。きっと、制作陣側からのその答えが、第49話『前夜』の最後に、ナレーションで読まれたこの一節であろう。
高梨内記の娘に関しては、さまざまな言い伝えがある。真田信繁の側室であったとも、彼の子どもを宿したとも。真偽はともかく、1つだけ確かなのは信繁に関わった女性たちの中で最も長く側にいたのは、彼女(きり)だということである。
真田丸は、真田信繁が主人公ではあるものの、登場人物のひとりひとりが濃く、ある意味では群像劇にも近い。
結果、視聴者の視点があちらこちらに行きがちである。龍馬伝では、香川照之さん演じる岩崎弥太郎を、ナレーションとして登場させたが、バラバラになりがちな物語を、主人公と共に紡いでいく相手が必要だったのだろう。信之に同じ役割を担わせることも出来たのかもしれないが、敢えて無名の人物を選んだのは何故だったのだろうか。
ひとりひとりの歴史物語
きりのシーンで、印象的な場面がある。
うめと真田信繁との祝言の場を利用して行われた暗殺劇。そこで、きりの放ったひと言が、『何つったってんのよ。あなたたち、これでいいの?』だった。
ドラマの中では、残虐な命のやり取りが行われている。当時の価値観を、今の価値観で判断するのは、歴史を語る上でご法度だ。時代劇を見て『非常識だ!』と声を上げることこそ非常識だろう。多くの視聴者も、別世界のこととして見ていたことだろう。
それを打ち破る存在が、きりだったのだ。
歴史は常に、名も無き多くの人達によって作られる。特に女性に関しては、誰それの妻とか、誰それの娘とだけ語られ、名さえ残っていない人も多い。そんな人々にスポットライトをあてると共に、視聴者の声を代弁させ、物語の世界の中に引きずりこむ。その役割を担えたのは、高梨内記の娘『きり』だったのではないだろうか。
そして、最後まで付き合い続けた、という意味では視聴者もまた同じ立場だろう。
歴史とは、事実の積み重ねではあるものの、どう評価するのかは人それぞれ異なる。それを評価するプロセスにこそ歴史を学ぶ価値と楽しみがある。あった事実を淡々と伝えられたところで、面白くないじゃないか。
『歴史が私をどう評価するか、お手並み拝見としよう。』が最終話のコピーだそうだ。存分に楽しませていただこうと思う。