ゆとりずむ

東京で働く意識低い系ITコンサル(見習)。金融、時事、節約、会計等々のネタを呟きます。

信用できるメディアとは何か


ぼけーっとTwitterを眺めていたら流れてきたツイート。

 この文章からだけでは詳細はつかめないけれど、我が国はテレビの信用度なるものが、欧米に比べて大変高いらしい。その事実から、"欧米は全く『テレビは疑うもの』との価値観を有している"ということにたどり着いたらしい。その上で、『日本人はメディアで洗脳するのが最も容易な民族』ということがわかったようである。

なかなか興味深い文章である。

情報源の有無の重要性について

案の定というべきか、本ツイートには『ソースだせよ』とのリプライの嵐となっていた。で、本人TLでも眺めてみたら、どうやら下記文書などに記載があるようである。

 あー、鶴田センセかーと思いながらざっと眺めてみたが、データの一次ソースは世界価値観調査の結果となるようだ。

提示されたデータが、信用できるかを判断する際に、どのように作られたかを理解することは決定的に重要である。情報をとりまとめたのはどういった立場の人たちなのか。標本の属性はどうなっているのか。また『年収』や『子供の数』といった定義付けし易いものであればさておき、今回のような『意識調査』においては、具体的にどういった文章で調査が行われたのか。選択肢の順番まで含めて、きちんと追跡できる状態でなければ、信用に足るものか判断が付かない。

数値自体は正しくとも、論理展開の際に、調査の方法や趣旨と合致するかどうかが重要である場合は多い。例えば『ネット通販を利用したことがあるか?』と調査するのに、電話調査とネット調査とでは、得られる結果に大きな差がつくことは想像に難くない。

とはいえ、具体的な情報源が、同一の文章の中に示されているかどうかは、情報の信頼性を担保するにあたって最重要であるか?と言われれば、そうとも思えない。前後のツイートを見比べて分かるのであればそれでよいし、ググって出てくるのであればそれでもよい。情報発信者との連絡手段が存在するのであればそれでも十分だろう。

テーマがテーマだけに、同一ツイート内に明示しておいて欲しかったなあという思いは強いが、あくまで何らかの手段で原典に辿り着けることが重要なのであって、そこの手段はなんだって良いだろう。

正しい情報ってどういうことなんだろう

そもそも『信頼できる情報』とは何だろうか。

いくら情報源が明示されていたとしても、それが信用できるかどうかはメディアの信用性とは直接関係がない。人間の手が加わる以上、当然ミスは起こりうる。しかし現実には、日々伝えられる膨大な情報の中で、誤った情報に遭遇する確率的はそれほど高くない。

ただ、メディアが日々発信する情報には、多くの解釈と、それに基づいた取捨選択が含まれる。例えば下の絵を見て欲しい。

http://www.ehonnavi.net/shop/img_2/4548266301081_500_088.jpg

多くのひとが小学生のころに国語の授業で振れたであろう『スイミー』の表紙である。

赤い魚の群れの中に、一匹だけ黒い魚がいる状態だ。この状況を『黒い魚がいる』と言った場合、それは『ウソ』では無いだろう。

しかし状況を正しく伝えるにあたって、その表現は慎重に行わねばならない。『黒い魚がいて、彼のお陰でマグロは去った』と言われても、きっとそれはウソではない。ただ『黒い魚一匹でマグロを追い払った』ワケではないだろう。確かに、スイミーは重要な存在であったが、彼ひとりでマグロと対抗したのではない。

しかしスイミー達が群れをなして実際に泳いでいるところを想像して欲しい。多くの人には、赤い魚の群れにしか見えずスイミーの存在を見落とす可能性は高い。

信用できるメディアとは何か

多くのメディアは、全くのデタラメを語ることはほとんど無いだろう。つーか、そこは最低限頑張ってくれ。それに、一次情報の正確さは、当事者でしか知りうることが出来ない。ただそれを、視聴者にどのように考え、理解させるのかについては、各メディアの手が加わる余地が大きい。

真実とは、見る角度によって全く別の姿を見せる代物なのだ。

そのメディアが信用に足るか否かを判断するにあたり、真実がくっきりと明瞭に見えることは最低限の条件とし、多くの角度それも、読者が思いもよらない角度からしっかりと捉えているかどうかがひとつの大きなポイントになる。

例えば、アメリカでは23%、イギリスでは12%未満に過ぎないテレビへの信頼性が、日本では70%であった場合、それは果たして何を意味するのか。ひとつは、テレビに対する権威性や信頼性を重んじる国民性という考え方も出来るかもしれないが、つーか単純に、日本のテレビの質が、英米のそれを大きく上回っているだけなのかもしれない。(そんな気はしないけど)

『自分の頭で考える』ことは重要な行為である。しかし、一人の人間の知恵には限界がある。それ故に『こんな考え方も出来るんじゃない?』と解釈を提示してくれることを、メディアには期待しているのであって、ありきたりな一般論をぼやく芸能人が涙を流すシーンのワイプ映像なんかを眺めたところで得るものはない。

メディアとの付き合い方

我々は、メディアとどう付き合うべきなのだろうか。

報じられている情報が正しいかどうかまで、いちいち考えたところで埒があかない。我々には、真実かどうかを検証する術はない。しかし、その解釈の正しさや視野の広さについては検討の余地がある。言い換えれば『筋が通っているか』だ。

テレビの信用度が先進国第一位だという提示はまあ正しいのだろう。しかし、これらのデータから『欧米ではテレビを疑うものという価値観を有している』ということや『日本人はメディアで洗脳することが容易』とまで結びつけるのは、推論の上に推論を重ねた結果に過ぎない。

こうした論理の積み重ねは、個々人で検証することは可能だ。

Web上で何を発言するのかは、全く自由であるべきだ。しかし、この意見を自分のタイムライン上にリツイートとして掲載したひとが『思考停止状態』で無かったかどうかについては、大いに疑問が残る。

情報が正しいかどうかを判断するときに、もっとも大事なことは、他の見方が無いかを考えることだ。

それがいままでに自分が信じてきた見方や考え方と異なるものであればなおのこと、自分ひとりで考えることには無理がある。幸いにもネットは、他の立場のひとの意見を容易に入手することが出来る。しかし問題は、そういった声にしっかりと耳を傾けることが出来るかどうかだ。

メディアが様々な意見や立場の声を拾って伝えたとしても、『自分と合う意見』にしのみ触れようとするあればまったく意味がない。あくまでメディアは『自分と合わない意見』にもきちんと接する為にあるべきであり、自分の信条と異なる意見にもしっかり耳を傾けることだけが『思考停止状態』から抜け出す唯一の解だ。

また我々が意識せねばならないのは、Twitterもひとつのメディアであるということだ。そこからなんとなく『自分の主義主張に一致するもの』にだけ接するのであれば、家で一日中テレビを眺めている老人と大差はない。いや、もっとひどいかもしれない。

重要なことは、情報を手に入れるための手段ではない。それをどのように理解していくかだ。そこが変わらない限り、信じる神様が変わっただけで、何一つ変わるところは無い。