東京に出てきてから8年近く経つと流石に減ったが、当初は『それって方言だったのか!?』というギャップに驚くことは多かった。
地元神戸では『それ、ほっておいて』と言うと『捨ててください』という意味になるが、標準語的には『そこの場所に残しておいてください』となる。おそらく『ゴミ箱に放り投げる』というニュアンスから生まれた言葉なのだろが、実に紛らわしい。全国各地で、年に何回かはトラブルになっていそう。
そういや、こちらに出てきてからあまり聞かなかったような気もするが『遠慮のかたまり』も関西の方言のようだ。
関西の人
— ユキ@リンホラ 進撃の軌跡 Revo最高 (@snow_belltree) 2017年7月18日
信じられないかもしれませんが、「遠慮のかたまり」「蚊にかまれる」「ぐねる」「アテ」「いがむ」これらは標準語ではないそうです
気をつけましょう#ちゃちゃ入れマンデー pic.twitter.com/k2R7XGQ0rk
遠慮のかたまりとは何か?辞書から引用してみるとこんなところである。
大きなお皿に盛った料理などをみんなで食べていると最後にひとつ残り、「私はよいので食べてください」と誰もが遠慮して手を出さなくなること。また、その残された物。
こういう状態のものである。(しかし、イラストやは本当になんでもあるな・・・)
(お皿に一つだけ残った食べ物のイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや)
ただこの意味だけ聞いたところで、『遠慮のかたまり』という言葉が示すものが何かは理解出来ないだろう。
大皿に盛られた料理の中で、最後に残った一個。さっさと誰かが食べてくれないと、お店の人にお皿を返せない。正直、もう冷えてしまって美味しくない場合もある。しかし、そこに箸を伸ばすとがめつい(欲張り)感じがして、お見合い状態になってしまう。『誰でもええからさっさと取ってくれや。でも自分が目立つんは嫌やわ』となった状況も含めて『遠慮のかたまり』と呼ぶ。
これが言葉としての『遠慮のかたまり』の意味だ。しかし、何故これが"関西の方言"なのかと考えると、この言葉がどのように使われるのかも含めて考えるべきだろう。
遠慮のかたまりの背景
似たような言葉として(私は聞いたことも使ったこともないが)『関東一つ残し』なるものがあるそうだ。Naverまとめではあるが、下記は良く意見を整理していると思うので挙げてみる。
問題はこれを、なぜ『遠慮のかたまり』と呼ぶのかだ。『最後の一個に手を付けないことを作法』と考えるのかもしれないが、それを否定するために使う語が『遠慮のかたまり』だ。
最後に残った一個に対して『この遠慮のかたまり、もろてもかまへん?』と一声かけてから食べれば、それは無作法にはならない。むしろ、上島竜兵が手を上げたときのように、皆から『どうぞどうぞ』と『何か残っとんのを放ったらかしなっとんのも悪いし、よう言うてくれた』と快く受け入れられる(本当に遠慮のかたまりだったらね)
これが『一つ残し貰うね』だとそうは行かないだろう。『みなさんのお気持ちで遠慮のかたまりのような状態になってるんで、このまんまじゃどうにもならないので、わたしが処理しますね』という手続きをするためには『遠慮のかたまり』という言葉は良く考えられた言い回しだ。
粋(イキ)と粋(スイ)
こうした事象に地域差があるのかどうかは分からないが、もし『一つ残し』が関東の文化とすると、その背景にあるのは『粋(イキ)』の価値観だろう。
江戸っ子の『粋(イキ)』の基本は見栄と潔さだ。火事と喧嘩は江戸の華、なんて言葉も残されているが、全ての財産が一晩にして無くなることも珍しくないのだから、執着せずにぱっと使ってしまったほうが良い。また、参勤交代や地方からの出稼ぎ者も多く、人の流動性が高い街だ。ならば相手との関係を重んじるよりも、誰とでも竹を割ったようにサッパリとした関係で付き合うほうが良い。粋(イキ)とは、本人にとってのかっこよさが重要なのだろう。
一方、なにわ商人の『粋(スイ)』の基本は信用と実利だ。信用を得るためには、価値観を共有出来るかどうかが重要である。同じ方法で商売を行い、同じ考え方で利益を追求し、同じ美学について語り合うことで、相手への信用は生まれる。『わたしはあなたと同じ価値観を共有できる人間です』ということをアピールするために、作法を学び、守ることが重要になる。もし作法が実利を妨げるとしても、作法を尊重した上で『誰も名誉が傷つかない方法』を探っていく。粋(スイ)は、周囲から賢いと思われることに価値を見出しているようにも見える。
あくまで素人の俗流民族文化論にすぎないが、こうした地域性と紐付けて考えてみると『遠慮のかたまり』が、敢えて迂遠な言い回しをとる関西の商人文化において育まれたのではないか、と考えてみると楽しくないだろうか。
言葉と文化
単純な言い方の違いというだけのこともあるが、言葉が文化の写し鏡になっていることも多い。
例えば英語では、生きている状態の牛を"cow""ox""bull"、豚を"pig"などと呼ぶが、食べられる状態のものは"beef"や"pork"となる。イギリスは、過去にフランス語圏のノルマンディー公国に制服されていた時期があった。beefやporkはフランス語由来だそうだが、支配者から見た牛や豚は、食べられる状態のものであり、すでに加工し終えた精肉に対してのみ、別の言語体系の単語が割り当てられるようになったそうだ。
一方、日本語においても、多くの人が『米』と『稲』と『飯』を全く別のものとして区別するが、英語では前後に別の語を付して識別することもあるが、基本的にはriceだ。
『AとはBという意味である』というだけではつまらないが、言葉の違いについて、その背景を追っていってみると、色んな事実が分かる事がある。そんなことを考えてみるのもまた楽しい。