ゆとりずむ

東京で働く意識低い系ITコンサル(見習)。金融、時事、節約、会計等々のネタを呟きます。

被害者意識との付き合い方

こんにちは、らくからちゃです。

世の中、色んなタイプの人がいますが、何故かやたらと被害者意識が強くて、常に何かに怒りをぶつけている人っていますよね。よくもまあそんな下らないことにかけられるエネルギーがあるもんだと関心すると同時に、なるべく関わらんとこと思う次第であります。

そうした負の感情に心を支配されるのは、精神力も消耗しますし、生産性を著しく低下させる要因にもなり、非常に損な気がします。それ故に、他人事ではなく、どうやったらそういう思考に陥るリスクを減らせるのかねえ?と考えている中、ひとつ思い出したことがあります。

スーツケースとスマートフォン

だいたい今から半年くらい前だったかな。

担当していたプロジェクトがプチ炎上した結果、徹夜で作業をする羽目になったときのことです。朝日が眩しい6時過ぎに、ラッシュとは逆方向の電車に乗って家路についておりました。乗客もまばらな中、空いた車内で、うつらうつらとしていたところ、脚に『ドン!』とぶつかるものがありました。

なんやなんやと思って見てみたら、向かい側の席に座っていたお姉さんのスーツケースが、コロコローっと転がってきてぶつかってきたんですね。 こういうのね。

お姉さんは、申し訳なさそうな顔をしてスーツケースを自分の席の前に回収していきました。しばらくは、手でしっかり支えていたので、スーツケースがお散歩することはなかったのですが、お姉さんがスマートフォンをポチポチしようとして手を離したすきに、またコロコロ~っと転がりだす。

脱走したスーツケースは、私の足元にまた転がりこんでくる。そんなこんなが数回繰り返されました。また脚に当たるのも嫌やなーと思いましたんで、これはどないかならんのかと、ちょっと考えてから言ってみました。

『お姉さん、それ横に倒せませんか?』

最初は、キャスター付きの椅子についているような、ロック機能みたいなものは無いんかなあと思って観察したのですが、そうしたものはない。ただ眺めていて気がついたのですが、横(一番長い部分って言えばわかる?)の部分に滑り止めみたいなものがついている。ということは、これは横に倒しておけるはずやと。幸い電車はガラガラ。倒しておいても誰にも迷惑にはならない。

それを聞いたお姉さんは、ああなるほどといった顔でスーツケースを横に倒し、会釈をしたあと、またスマートフォンをいじり、わたしは最寄り駅までもう一眠りすることができました。

 それはどうあるべき?

後日職場で、喫煙スペースに副流煙を吸いにサボりに行ったとき、普段あんまり接点の無い同じ部署のひとがモクモクタイムをしていたので、雑談がてらにこの話をしてみました。何もドヤりたいわけではなく、新しいライフハック見つけたぜ!くらいの感覚で、こんなことがありましてーと話してみたんですね。

そこで言われて驚いたのは、『なんでそこまでしてやる必要があるのか。謝罪を求めるべき。そういう奴を放置すべきではない』と。

わたしとしては

  1. 彼女はスマホ弄りたいのだろう
  2. ただスーツケースは転がして欲しくない
  3. なんかあれ良い解決策ないのかね
  4. 倒せば良いんじゃね
  5. 万事オッケー

って思ったけど、ただそれに対して

  1. スマホをいじるべきではない
  2. 解決策は自分で見つけるべきだ
  3. こちらが手を貸すべきではない
  4. 相手の権利の侵害である
  5. きちんと被害を受けていることを伝えるべき

と考える人もいるわけで、それ自体は何ら不思議はないし、どちらが正しいとかそういう話でも無いと思うんよね。でも、この人もなんだけど、なーんか普段から負のオーラ出してる人って、この「べき」って言葉に囚われてるひとが多いなあって思うんですよね。

この例で言えば、わたしは大した被害を受けたわけではないんですよ。ちょっと知恵を出して、お互いハッピーになれたんだからそれで万事オッケーくらいにしか思っていない。その一方で、それは本来やらなきゃいけないことじゃないよね、と考える人もいる。

勿論ルールとか規範意識とかいったものを大切にすることは重要ですけど、何でもかんでも「こうあるべき」「それなのに現実が違う」というところに留まったところで、結局なんも生み出せないんですよね。

あと自分にとっての「かくあるべき」が、世の中一般の標準なのか、自分にとって都合の良い解釈や受け止め方をしていないのか?も考える必要がありますしね。

例えば「自分は努力もしているし成果も上げているんだから、もっと評価されて然るべきだ」と嘆いたところで何も変わらない。実際に評価される人は「自分の努力や成果が評価されないのはどうしてなんだ?」と考えている人が多い。

辛くなったら「べき」を捨ててみよう

でまあ、このことに気がついて改めて振り返ってみると、私自身も「○○であるべき」みたいなものに支配されて辛い思いをしてたことがあったなーと思いだしたんですね。

確かにスジが通らなかったし、それなりに被害も受けていたけど、今あらためて考えてみたら、そこにこだわるよりも、さっさと諦めて前に進んでたほうが良かったよねーってものがほとんどだったんですよね。

それから改めて、「なんでこんなことしなきゃいけないんだよ!」とカッとなったときも、「まあひとまずここは助けておいて、一つ貸しにでもしとこっか」と思えるようになってからは、いろいろ心が軽くなったような気がします。

もしいまも、強すぎる「被害者意識」に悩んでいる人(それに気づいていないほうが多いような気もしますけど)がいたら、いちど「べき」から距離を置くことを考えてみてもいいいのかなー、なんて思う今日このごろです。

ではでは、今日はこのへんで。