ゆとりずむ

東京で働く意識低い系ITコンサル(見習)。金融、時事、節約、会計等々のネタを呟きます。

案外凄かった?江戸幕府の通貨・外交政策をざっくりまとめてみる

こんにちは、らくからちゃです。

会計システムを飯の種にしているからか、人一倍お金の話には興味があります。先日も、商売道具についてもうちょっと勉強したいわんと思い、こんな本を買いました。

 

 

日本の歴史を『通貨』という切り口からまとめた本ですが、ごっつう面白かったです。例えばこんな話を聞いたことはないでしょうか?

幕末期、日本では金1:銀5の比率であった。一方海外では、金1:銀15の比率であった。

そこで開国後、海外から銀貨5枚を持ち込んで金貨1枚に交換し、その金貨を自国に持ち帰って銀貨に交換すると銀貨15枚となった。その結果、日本国内の金が大量に海外へと流出した。

これだけ聞くと『長い間鎖国をしていたから、幕府は海外事情に疎かったんだなあ。そのため、悪い外国人に騙されて、大量の金を奪われてしまったんだね。ま、日本の外交力が弱いのは仕方のないことかもな。』そんな感想を持つかもしれません。

幕末期に、交換レートの違いから金が流出したことについては事実です。

だがしかし。その背景を辿ってみると、江戸幕府の高度な通貨政策相手の裏をかく交渉術、そしてその推移を冷静に見守った市民たちの姿が垣間見れます。

そもそも鎖国政策の中でも、中国やオランダとは貿易は続けられており、国内における金銀の相場レートも海外とかけ離れたものでは有りませんでした。ではなぜ、『幕末の金流出問題』は生じたのか?

読んでいて、随分面白いなあと思いましたので、ご紹介してみたいと思います。

※本稿は、『正確さ』よりも『わかり易さ』を重視して記載されたものであり、詳細な数値等については、学術的な資料を参考とされることをお薦め致します。

三貨制度と秤量貨幣・計数貨幣

まずは簡単な日本史の復習から。江戸時代、我が国では金・銀・銭 の3種類の貨幣が使われていました。

江戸時代のお金と聞いて、やっぱり真っ先に思い浮かぶのって、こういうやつじゃないでしょうか?良く悪人に投げつけられている奴。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f1/Kanei-tsuho-takada.jpg丸くて真ん中に四角い穴が開いていて、銅などを原料にした『銭』と呼ばれる貨幣。(なお写真の寛永通宝には鉄製もありました)西暦708年に和同開珎が作られてから、我が国の『お金』といえば、基本的にこのスタイルでした。

日本国内では、962年の乾元大宝まで12種類のタイプのもの、皇朝十二銭が作られます。江戸時代に入ると、幕府によって再度製造されるようになりますが、それまでは中国から持ち込まれた輸入銭などが使われました。

そのため、国内のものから海外のものまで、色々なデザインの『銭』がありました。しかし、よっぽどボロボロだったりしないかぎり、基本的に1枚=1文として扱われました。(ちょっと大きめの『四文銭』というものも発行されましたが)

この銭について、ちょっと面白い当時の『ルール』があります。銭の真ん中に四角い穴のところに紐を通して束にされているものをみたことがあるかと思いますが、実際には97枚であっても100文として扱われました。これを短陌といいます。

重要なのは、実際の枚数ではなく、『束にされた銭』という事実だったんですね。(この話、本記事の中で繰返し出てきます)

 銀

銭は発行枚数も多く、庶民の日常の取引にも使われました。しかし額面が小さいため大規模な取引には不向きです。

江戸時代が始まる少し前、アンデスのポトシ銀山やスペインのサカテカス銀山など、世界的に鉱山開発が進みました。日本国内においても石見銀山が有名ですね。時はまさにシルバーラッシュの時代でした。

国際的な取引も『銀』が中心となって行わたため、商人の街であった大坂・京都・博多などの西日本では、『丁銀』と呼ばれる銀の塊が使われました。随分いびつな形をしていますが、1個2個という単位ではなく、重さを測って取引を行いました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8f/Keicho-chogin2.jpg

通貨の単位は重さの単位である『匁(もんめ)』。重さなので一個一個異なりますが、だいたい1つ43匁(約161.25グラム)前後で製造されたそうです。このように重さを図って使うお金を秤量貨幣といいます

そして純銀というわけではなく、色々な金属の合金でした。上の写真にもある『慶長丁銀』はだいたい80%くらいの含有率でした。しかし、世の中が平和になってきた影響もあり

  • 海外からの輸入の増加(銀の流出)
  • 人口の増加(国内総生産の増加)
  • 貨幣経済の進展(国内での取引機会の増加)

のトリプルパンチで、必要な貨幣に対し物のほうが多くなります。『貨幣』の希少性が上がるわけなので、物価が下落します。今風の言い方をすると『デフレ』ですね。

行政コストも上がりますが、銀山の産出量は少なくなり始めており、貨幣の増産も難しい・・・。そこで幕府は『貨幣の改鋳』を行います。言い換えれば、銀の比率を『薄めた』わけです。

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この政策を進めた荻原重秀という勘定奉行はこんな言葉を残しています。

貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。

『国家が貨幣作るものなんだから、例え瓦礫であっても貨幣として宣言したら有効なんだYO!』と。まさに貨幣の本質を見抜いた名言だとは思いませんか?

貨幣流通量も増え、幕府の財政も再建できてみんなハッピー!と言いたいところですが、インフレという副作用がありました。

特に打撃が大きかったのは、大坂の商人たち。銀の比率が下がったとはいえ、(国内的には)同じ重さで図って評価していたわけですので、貨幣の流通量の増大は致命傷となりました。これに対し、幕府の政治顧問であった新井白石は以下のようにツッコミを入れます。

名こそ銀にてあるなれ、実には銅の銀気あるにも及ばず

いや、これ銀色した塊だよねえ?どうなのよ?と。彼は、ガッチガチの儒学者でしたので、まがい物の貨幣を発行することが許せなかったようですね。その後、享保丁銀を発行し、元の80%へと品位を回復させます。

で、今度起こったのは大デフレ(ノ∀`)アチャー

いたるところで決済用のお金が無くて困ってしまう自体に繋がります。荻原の政策にもちょっと無茶なところはありましたが、新井の政策にはそもそも経済の観点が無かった・・・というかその当時にそこまで理解すること出来た人のほうが少なかったと思いますけれどね。

はい、最後はこちら。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b5/Keicho-koban.jpg

 

おまんじゅうの下に敷き詰められているやつですね。・・・というのは冗談ですが、当初は『貨幣』としてよりも、家臣への褒章として使われたことが多かったそうです。

小判1枚は、『匁』のような重さを表す『両』という単位で図られました。しかし銀とは異なり重さで図られることはなく、決まった規格として1枚=1両として使われました。こういった貨幣を『計数貨幣』といいます。

両を基準として、その1/4にあたる『分』。更にその1/4にあたる『朱』と呼ばれ貨幣も作られました。つまり、16朱が4分で1両です。関係性を整理するとこんな感じ。

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(出典:日本の貨幣のあゆみ:三菱東京UFJ銀行)

はい。ここで注目のポイントが、『二分金』の下です。『一分銀』と『一分金』とありますね。分・朱は金製・銀製のものがありましたが、両方同じ額面で扱われました。並べて見てみましょう。

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(出典:紅林コイン

左から順番に、

  1. 文政一分判金
  2. 天宝二朱判金
  3. 万延二朱判金
  4. 天宝一分銀
  5. 安政一分銀

となります。一分金より一分銀の方がちょっと大きめですが、銀より金のほうが圧倒的に高価ですので、本当はずっと低い価値の銀貨に金貨と同じ値段をつけて通用させたということになります。

同時期に発行された物を比べると、

  • 天保一分銀 ・・・8.62グラム 銀98%
  • 天保一両小判・・・11.24グラム 金56.77%+銀42.86%

となります。つまり天保一両小判には金が6.38グラムと銀が4.81グラム含まれておりました。天保一分銀に含まれる銀を一両分になおす(4倍する)と33.79グラム。これを比率に直すと金1:銀4.54となります。

当時国内でも、金1:銀13くらいのレートで取引されていたため、素材の3倍近い価値で貨幣を発行していたことになります。お陰さまで、幕府は莫大な利益を得ます。

ここでまた、荻原の言葉が思い出されますね。『貨幣の価値というのは、素材の価値ではなく、それを幾らとして扱うのかという社会的な約束』なんですよ、と。

しかしこのことが、幕末期の金の流出へとつながっていきます。

1ドルはいくら?

幕末、ペリーが『開国シテクダサーイ』とやってきます。その時結ばれたのが、日米和親条約。入港や補給など、基本的な内容でした。その後、貿易などの具体的な内容を定めたのが、ハリスによって結ばれた日米修好通商条約ですね。

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その中には、関税に関することや居留地に関することについても書かれていましたが、本格的に貿易を始めるとなると最も重要なテーマは『為替レート』です。

当時、円はまだ発行されていませんので、ドル両レートとでも言えばよいのでしょうか。アメリカと日本の通貨を、どの程度の比率で交換するのかによって、交易条件は大きく変わります。

その当時国際貿易では銀が広く使われていました。日本国内では一分銀が広く使われていましたので、アメリカは一ドル銀貨と一分銀との交換を要求します。

その交換レートについて、日本が主張したのはこんな理論でした。

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当時の幕府の通貨は、『金』を基準にした金本位制に基づくものです。そこでまず、銀を金に置き換えて考えます。1ドル銀貨は純銀23.2グラムですが、これを銀の地金と考え、幕府の買取価格で換算すると金1/4両になります。1/4両は1分であるため、洋銀1枚は一分銀一枚となります。

この交換レート、素材の価値で見ると金1:銀14くらいの比率になります。国際的にみてもとんでもない数値では有りません。

しかしこれを聞いたアメリカ側は

Why Japanese people!

と怒ります。

こっちの銀貨は一枚あたり銀が26.73グラムダヨ!一分銀って、8.62グラムしかないじゃん。1/3サイズじゃん。ドウイウコト?オカシクナイ?ナメテナイ?

彼らの言い分はこう。

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だから一分銀を3つ寄越せ!と。確かにアメリカ側の言うこともわかります。日本側の言い分では、我が国では8.62グラムの銀しか含まれていない一分銀で23.2グラムの純銀が買い取れるぞと言ったに等しい。

でもね、それができたんですよ。一分銀はあくまで本位貨幣である両への兌換券でしかありません。そこには、ずっと価値は低いのに『金1分と同じ価値がありますよ』って書いてあったんです。そこについた『信用』があるぶん、ただの銀の塊じゃなかったんです。

現代流に考えれば、製造原価が数十円の1万円札であれこれ買えるのはおかしい!なんていう人は滅多に居ないですよね。それと同じなんです。そのことをアメリカ側は理解できなかったのか、あるいは分からないふりをしたのかは分かりません*1が、ハリスの案が突き通されます。

金の流出を阻止せよ!

さてこれで、両替による錬金術の方程式が出来上がります。

ドルを4枚を日本に持ち込むと、一分銀12枚になります。これは、3両、小判3枚の勝ちになります。これを国外に持ち出し、鋳潰して金塊にすれば、メキシコドル12枚分の勝ちになる。

まさに銀貨1枚が銀貨3枚に化けるという錬金術の完成です。

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(出典:幕末の通貨問題 - Wikipedia)

そして紆余曲折あったけど、教科書に載っていたとおりです。このままでは、じゃんじゃん海外に金貨が流出してしまいます。

だが幕府も黙って眺めてはいなかった。

幕末期の超有能な官僚で、水野忠徳という人が居ます。たったの500石の旗本だったのですが、小笠原を開拓し始めた米国に対して実効支配で対抗したり、重要な局面で手腕を奮います。そんな彼の発案したのが『二朱銀』という対抗策。

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二朱ですので、一分の半分の額面になりますが、銀の量は多かった。幕府はこれを、貿易専用の貨幣として発行します。それをするとどうなるのか?『銀含有量の比率』から、ドル1枚は二朱銀2枚、つまり一分になります。これなら、金・銀のレートは海外のものに近づきます。

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まさに、『同じだけ銀が入っているお金チョーダイ』と言ってきた外国人の裏を取ったんですね。この作戦を開港直前に電撃的に公表します。

これをみたイギリス公使のオールコックは下記のように記しています。

『これに反対する権利をイギリス政府が要求することができるような理由はないように思える。大君は、かれの領内に流通している貨幣の名称と重量を好きなように定めることができるものと考えなければならない』

(参考:幕末の金流出は何故ハイパーインフレを起こしたか? | Kousyoublog)

確かに『論理』としては筋が通っている。でも金属価値の高い二朱銀を日本中に広めることは出来ません。そのため、一分銀に両替しなければ使えない。またその価値も、額面の1/3価格になりますので諸外国は強く抗議します。その結果、この奇策は1ヶ月も持ちませんでした。

庶民の目線

その後当初の約束通り、1ドル=銀3分として交換することになります。で、あとは前に述べたような金の流出が発生します。

『金の持ち出しを禁止すれば良かったんじゃない?』といえばそうなのですが、外国人の国内旅行・京都滞在を拒否するためのカードとして『金貨の持ち出し』を許可しちゃってたんですね。

何と無策な・・・と言いたくもなりますが、散々海外から銭を密輸してきた日本の感覚としては、『どうせ禁止しても効果があるかどうかわからないならカードとして使っちゃえ』という感覚は分からなくもないような気がします。

結果として、日本から海外へ大量の金が流出する結果になってしまいました。しかし、実際に貿易に携わることになる商人たちは、こうなることを予め予測して、金貨を溜め込んでいました。その結果、思ったほどにはいかなかったこともあったんだとか。

また幕府の地道な引き伸ばしの中、世界経済の実態にあわせて各種通貨の改鋳が進められました。

改鋳については、ハリス自身が『もう投機的な取引じゃなくて、ちゃんとした貿易をしようよ』と持ちかけたこともあったそうです。英米においても、ちゃっかり利益を挙げた投機筋よりも、大規模な産業資本のほうが『主流派』です。このことが明るみになり、攘夷運動が盛んになり、貿易が滞ることを恐れたんですね。

その結果もあり、従来の予測より流出量は少ないかも、という研究もあるようですね。

ここで注目すべきポイントは、市井の人々の中にも、しっかりした経済観を持った人たちが居たということのような気がします。幕末期、黒船の登場に押されはしたものの、ただ言いなりになっていただけでなく、強かな抵抗していたということは、注目すべき事実だと思います。

江戸幕府の金融財政政策は学ぶべきことが多い

さて改めて振り返ってみると、江戸時代の金融・財政政策は、色々と学ぶべきことが多いような気がします。

中学校や高校の歴史の授業では、ただ暗記をさせられてきた出来事も、経済学を学んだあとで振り返ってみれば『え、こんな高度なことやってたの!?』と驚くことも多数です。

本稿では書ききれなかった様々なイベントが有ります。いま、アベノミクスや異次元の金融緩和などなど、様々な経済政策が唱えられていますが、そこを読み解くヒントも沢山あるのではないでしょうか。

この時代についてだけいっても、素人が適当に書いた文章よりも、読みやすく分かりやすい書籍はたくさんあります。ここまでよんで『面白そう』と思った人には楽しめるのではないでしょうか。

もしご興味を以っていただくことが出来れば、ブロガー冥利に尽きます。よろしければ是非!

ではでは、今日はこの辺で。

*1:後にハリスが大儲けしているところをみると、気づいていたんでしょうね