眼の調子が悪い。
そう気がついたのは、いまから5日ほど前のことだったろうか。目の中に、まつげでも入ったかのような感覚がずーっと続くのだ。ちょうど妻が同じ症状を患っており、原因はピンときた。結膜炎だ。
すぐにでも医者に行くべきと体は主張していたけれど、諸事多忙につき中々時間が取ることができず、一昨日半休をとってやっと近所の眼科に行って来た次第である。
気づけば白目と言うべきところがほぼ全て赤目になっており、涙が止まらず、寝起きは目やにのせいで目が開けられないという散々な状況ではあるが、幸い痛みや痒みは殆ど無い。
気になるのは、目の中に感じる異物感だ。鏡に向かってよーく観察してみると、血管がかなり腫れているように見える。いい歳したおっさんが目を真っ赤にし、涙を流しながら目頭を抑える様は、周囲からみれば中々不気味なものだろう。それに目をあけていること自体がやや苦痛である。
さてそんなこんなで、眼科にて、ぼやける視界と戦いながら問診票に向かっていた。住所、電話番号などと続いて、『症状』の欄に、こんな選択肢があった。
目がごろごろする
思えば、この『ごろごろする』という言葉を、何度か妻が言っていたのを聞いたことがある。わたしの中で、ごろごろするものと言えば、休日のおっさんか、猫か、あるいは雷様ぐらいのもんである。なんだ、妻は目の中におっさんでも飼ってるのか?そう思いながら聞いていたが、今なら確信を持ってこの問診票にこう書ける。
✓ 目がごろごろする
なんだろう。目の中に何か異物感がある感じ。うーん、たしかに『ごろごろする』と言われればそんなイメージかもしれない。しかし、こうしたことは、実際に経験してみないとなかなか理解することが難しい。
同じような経験は、会社員として働きはじめたときにもあった。『胃がムカムカする』ってやつだ。学生の頃は、何を食べても、何を呑んでも、腹がいっぱいになっても、それ以上の感覚はなかった。『食べ過ぎでお腹が苦しい』以外の『お腹が気持ち悪い』感覚を味わうことになるのは、働き始めて数ヶ月たったころからだった。
確かにこれも、言われてみれば『ムカムカする』のだ。最初は、随分とおっさんになっったもんだとムカムカとしたが、『もう若くねぇんだから、暴飲暴食はダメだぜ!』という体からのご注進だと思い、有りがたく受け入れるようにしている。
だが我々は、こうした身体感覚を表現する言葉をどうやって学んでいくのだろうか。
例えば、『ボール』や『ペン』といった名詞は分かりやすい。それを指差しながら、これがボール、これがペンと認識を合わせて行けばよい。『食べる』『寝る』といった動詞もまだ分かりやすいかもしれない。
形容詞は大きく2つに分かれるそうだ。その一つが、『大きい』とか『明るい』とかいう属性形容詞と呼ばれるものだ。これらはかなり抽象的な要素を含むことも多いが、体得することはそれほど難しいことではないだろう。問題は、『嬉しい』とか『楽しい』とか『辛い』とか『苦しい』といった感情形容詞と呼ばれるものだ。
確かに、我々はここに掲げたような単語を、普段何気なく使っている。
しかし我々は誰ひとりとして、他者と感覚を共有することは出来ないのだ。それはあくまで、類推でしか無い。自分の感じている感覚を、どの程度他者にも伝え得ることが出来たのかは、全く未知の世界なのである。
喜びも、悲しみも、例え夫婦であったとしても、その全てを同じ感覚として共有出来ていることを保証する術はどこにもないのだ。
そんなことは、ウィトゲンシュタインの私的言語論から、クオリアに至るまで、散々議論されつくしてきたテーマであり、たったこれだけのことを伝えるには、些か大きすぎる話なのかもしれない。何かを正しく伝えることの難しさも念頭においた上で、改めて、皆様にお伝えしたい。
結膜炎、めっちゃ目がごろごろします(´・ω・`)
買いました