ゆとりずむ

東京で働く意識低い系ITコンサル(見習)。金融、時事、節約、会計等々のネタを呟きます。

お金に拘らないプロをどう扱っていくべきなのか問題

こんにちは、らくからちゃです。

毎日、製造業のお客様向けの原価管理システムの導入支援やらお問い合わせ対応やらをやらせていただいております。そんなお仕事をしている関係上、原価という単語が耳に入ったら、お耳がダンボになります笑

というわけで、こんな記事を読みました。

blog.tinect.jp

いやあ確かにいますねえ。目に見える部分にだけ着目して、「なんでこんなに高いんだ!」って吹き上がるひと。

ライセンス料の決め方

我々のようなIT屋は、お客様からユーザー数ごとに「ライセンス料」という形で、お代を頂戴して飯の種にしております。そうしますと「たくさん売れたんだから安くしろ!」とか「ユーザー数が増えてもコストがかかるわけじゃないのに保守料高すぎだろ!」なーんてお小言は日々頂戴します。

お気持ちは分からんでもありませんがね。それに対して「目に見えないところにもコストがかかっているんです」なんて答えるのは、それはそれでどうなの?と思うんですよね。

プロ原価厨から言わせていただけば、分かりやすいかろうが分かりにくいかろうが、原価なんちゅうものは価格決定の一要素にすぎません。いくら見えない部分で大変な労力が掛かろうとも、利用者にその価値が伝わらないのであれば、価格はゼロです。

その絵を描けるようになるまで30年と30秒かかったとしても、そのお値段は手に入れたいと思わせるかどうかに依存します。

逆に言えば、原価ゼロでもそれを手に入れることに価値を感じて貰えるのであれば、それ相応の対価を求めれば良いんです。

システムの価値はユーザー数に応じて増減するという前提のもと「費用」ではなく「利益」に応じた価格設定の方法としてライセンス料を頂戴しております。気に入らないようでしたら、どうぞ別のシステムをご利用くださいませ。

とまあ恨み辛みはこのあたりにして、「価格が高すぎる!」というのは、あくまで当事者間の問題であって、買いたくなければ買わなければ良いし、売りたくなければ売らなければ良い。それだけのことでしょう。

それよりもっと面倒なのは「お金にこだわってくれないプロ」の存在でしょうね。

家賃の味

例えばです。あなたが、無農薬有機栽培で産地直送で顔の見える野菜にこだわったお店を開いていたとしましょう。ちょっと高くない?なんてお小言もいただきながらも、なんとか食えるだけの稼ぎが出せるようになったとします。

そんな中、目の前で全く同品質の野菜をタダで配るひとが現れたらどうでしょうか。

相手は「俺は野菜づくりが生きがい。作るのは大好きだが食べきれない。このまま腐らせるのも勿体ないからタダで配ることにした」と。

量が少ない分、お客さんがゼロになるわけではない。でも確実に売上は減少する。相手があなたのお店を追い詰めるために不当廉売をしているのであればさておき、あくまで「趣味でやっているだけ」と言う。むしろ、タダで配ったほうが廃棄コストが掛からずありがたく、お金を取ると責任も生じるので嫌だとすら言う。

以前「家賃の味」なんてキーワードが流行りましたが、余力のある地主や年金で食っていける高齢者が半分「いきがい」でやっているようなお店を相手にしなきゃならないこともある。

togetter.com

これも厄介なのが「値段は同じでも向こうの店のほうが圧倒的に美味い」なんてことがあるんですよね。定量化しやすい金額や量で迫られたら「どうにかしてくれ」とも言えますが、品質面で差をつけられたら「御社の努力不足では?」と言われかねない。

こうしたケースはIT業界でも多いんですよね。

意地でも単金あげないオジサン

この業界でお仕事をしていると、ときおり破茶滅茶に実力があるのになぜか他のひととたいして変わらない単価でもお仕事をしてくれる人に出くわすことがあります。

極端なケースになると、こちらのほうが申し訳なくなって「あなたにその金額でお仕事を振ってしまったら、若手の単価があげづらくなってしまう。どうか増額させてほしい」とお膳立てしても、いまの金額で充分と首を縦にふってくれない場合すらあります。

彼らの話を聞くと、揃って「やりたい仕事をやらせて貰ってるからそれで充分」みたいなことを言う。確かに、難易度が高かったり最先端の内容だったり「これは彼くらいじゃないと任せられない」といった案件にアサインされることが多い。

しかし、そうしたベテランばかりを重用していると、若手が育ってこない。そこで「もう第一線は良いので、後方支援に回って貰えないですかね」みたいに促しても、いい顔はせず、むしろ機嫌を損ねてしまうので、結局いまの体制が維持されてしまう。

こういった「大御所」のいる領域では若手は育ちません。

ほったらかしにすると潜在的リスクも拡大するものの、結局飲み慣れたエナドリの如く「意地でも単金あげないオジサン」に頼らざるをえない状況が継続することになります。

そもそも彼らは組織にコミットするつもりはありません。ですので「若いものが同じ過ちを侵さないように」なんてことに気を配るモチベーションなんて無いんです。

それどころか「俺は死線をくぐり抜けてここまでやってきた。別の分野で同じように戦い抜いてくれたほうが、俺にとってはありがたい。まあ生き延びるのは100人に1人だろうが、俺の知ったこっちゃない」とすら思っている。

無償化する世の中でどう生きるのか

こうした「お金にこだわらない」人たちが厄介なのは、少なくとも当事者間は合意してるからなんですよね。

充分食っていけるお代は頂いているため、「やりがい」とか「つながり」とか「名誉」に価値を感じてお仕事をすることが出来る。一方で、彼らを基準に金額を決められてしまうと、生活すらままならなくなってしまうひとも居る。

彼らの中には、「あとに続く人たちが困らないように」と思うどころか「自分が居なくなって困る人が出てくる」ことに喜びを感じるひとすらいるんですよね。

こんな話を聞いたことがあります。

あるスポーツの名門校で、ずっと無償で指導者を引き受けてくれていた先生がいました。彼の実力は折り紙付きでしたが、そのノウハウを引き継ぐ後継者は育てなかった。後に彼は、ある不祥事から立場を追われることになる。そうした途端に、勝てなくなった。それを聞いた彼は「ほら自分が正しかった」と大喜びしたそうです。

本当に厄介なのは「カネのために仕事をするのか」といってくる人よりも、「俺はカネの為にやってるわけじゃない」という人たちなんじゃないのあなあと思うんですよね。こうしたひとがいる限り「○○さんは無償で引き受けてくれたのに・・・」と言われることになる。言われるだけならさておき、実際に○○さんに仕事が流れる。

例えば、最近UberEatsの単価が新規参入者の増加で大幅に下落しているといった話も聞きます。しかし「別に運動のついでにやってるからタダで毛に生えたレベルでも構わない」と言うひとを止めるのは容易ではありません。

より一層知識ベースの社会になり、空間的時間的制約がなくなると、ビギナーが3時間掛かる仕事を3分で終わらせて「良いよ。タダで」みたいに掻っ攫うケースが増えていくこと間違いなしです。

でも誰がそれを止められますか?

Wikipediaが現れて以降、確実に「百科事典ソフト」の売上は落ちた(むしろまだ存在するの?ってレベルですけど)と思いますが、それを止める術は無いでしょう。「いらすとや」は、どちらかというと新規の需要を掘り起こした感もありますが、類似のビジネスの中では、どう考えても越えられないレベルの規模感を握っている。

既存の需要を根こそぎ狩り尽くして、誰も追従できないくらいの圧倒的な差を生み出せないと、食っていくことすら難しい。世の中はどんどんそういった方向に向いつつある。

とはいえ、よほどのレベルにならないと、公正取引委員会等が公権力を行使し双方合意の取引に「あなた安すぎですよ」と介入するにはムリがある。

たしかに彼らの言う「俺たちは死ぬ気でやってきたから生き延びてこれた。彼らも同じように新しい需要を創造すべきだ。そうすりゃ俺らもハッピーになるので満足だ。」みたいな言い分には筋も一理もある。

一方、そこまで殺伐とした世界では生きていけない人もいるわけで、その生存権をどうやって確保していくのかは、社会の抱えた大きな宿題になるんだろうなーという予感も強くします。

「やりがいがあるから安く引き受けろ」というのは論外かもしれないけど「やりがいがあるから安くても引き受けたい」を止めるのは難しい。そして「やりがい」といった要素を全否定してしまうと、「後輩たちの仕事を守ること」を「やりがい」にしている人の活動まで阻害することになり、非常に社会的なコストが大きくなる。

そして社会が持続的に発展していくために「善意(やりがい・名誉欲)」に頼らない仕組みは必要なんだけれど、悩ましいことにそうした仕組みを作るためには、相当強い全員を持ったひとが、継続的に対価以上の労働を行うことが求められるケースも多いのもまた、悩ましい点だったりするんですよね。

まあどんな道を進むにせよ、選べるくらいには精進せねばなあ、なんて思う今日このごろです。

ではでは、今日はこのへんで。