ゆとりずむ

東京で働く意識低い系ITコンサル(見習)。金融、時事、節約、会計等々のネタを呟きます。

資源の呪いとグローバリズムの罠

こんにちは、らくからちゃです。

ずいぶん日も短くなってきましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。仕事は相変わらずお腹一杯ですが、こんなときこそ気分転換に読書の秋を決めてやるぜ!と会社の近所の図書館でシコタマ本を借りてきました。

 あ、ちなみに右です(笑)。

実用的なものもあったのですが、「これからはアフリカの時代だべ(☝ ՞ਊ ՞)☝勉強するっぺ(́◉◞౪◟◉)なんて、軽いノリで借りた本が非常に興味深い内容だったので、感想文でも書いてみたいかと思います。

喰い尽くされるアフリカ 欧米の資源略奪システムを中国が乗っ取る日

喰い尽くされるアフリカ 欧米の資源略奪システムを中国が乗っ取る日

 

「なんだ、アフリカの話か」と思われるかもしれませんが、今後日本でも起こることに少なからず関係している部分もあると思いますので、少しだけお時間を頂戴できれば幸いです。

資源が豊かなはずなのに豊かになれないアフリカ

天然資源の乏しい我が国からしてみれば大変うらやましいことに、アフリカには原油・金・ダイヤモンドなど天然資源を豊富に持つ国は多数あります。資源の収益を元に、高い水準のくらしができても良いはずなのに、人々の生活のレベルは最貧困層に沈んでいるのが実情です。

軍事独裁政権が跋扈し、常に内戦が繰り返され、教育も医療の水準も最底辺。売れるものといえばいつまで経っても天然資源だけで、どんなに援助を繰り返しても経済は成長の兆しすらみえない。その理由について、経済学者はずっと考え続けてきました。

そして見つけた答えのひとつが「資源の呪い」です。

 二十年以上にわたり、エコノミストたちは、天然資源がどうしてアフリカに害をもたらしているのかを明らかにしようとしている。コロンビア大学のマカータン・ハンフリーズ、ジェフリー・サックス、ジョセフ・スティグリッツは、2007年の著作でこう述べている。「矛盾しているように聞こえるかもしれないが、石油などの天然資源の発見や採掘により富もチャンスも増えるものと期待されたにもかかわらず、こうした資源は、バランスの取れた持続可能な発展を促進するどころか、むしろ妨げている場合がほとんどである」コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーのアナリストによれば、貧困に苦しむ人々の69%は石油や天然ガス、鉱物資源が経済的に重要な役割を果たしている国で暮らしている。また、こうした国の一人あたりの平均収入は、世界平均を遥かに下回っているという。

(中略)

 エコノミストはこの現象を「資源の呪い」と読んでいる。もちろん、アフリカにしろ他の地域にしろ、それだけで紛争や飢餓が蔓延している理由を説明することはできない。たとえばケニアなど、資源産業がさほど重要な地位を占めていないアフリカ諸国でも、汚職や民族対立はある。逆に、資源が豊かな国が必ずしも呪われる運命にあるというわけでもない。ノルウェーを見るといい。しかしたいていの場合、石油産業や鉱業など、資源産業が経済を支配している国は、好ましくない状態に陥る。資源の売買によりドルが流入してくると、経済そのものが歪んでしまうのだ。そもそも、政府が天然資源から得る収入は、いわば不労所得である。政府は単に、外国の企業が原油を汲み上げたり鉱石を採掘する許可を与えているだけだ。この種の収入は「資源レント」と呼ばれるが、健全な管理が行われることはなく、国家を支配する人々が勝手に使える資金を大量に生み出す。極端な場合になると、統治者と国民との社会契約さえ破綻させてしまう。支配階級の人間はもはや国民に課税して政府の資金を集める必要がないため、国民の同意を取り付ける必要もなくなってしまうからだ。

製造業と民主主義

この「資源の呪い」という事象を、経済的な面と政治的な面にわけて考えてみましょう。

まず経済的な面から見ていきましょう。

天然資源があることにより労せず外貨を獲得できると、政府は採掘権を売り飛ばすだけで歳入が確保できてしまうため国内産業に投資する必要がありません。更になまじ外貨があるぶん、国内の貧弱な製造業にモノを作らせるより海外で作ったモノを輸入したほうが安上がりになってしまう。だからますます足元の国内産業が育たなくなる。

こうした現象は、オランダが北海で天然ガスの採掘を始めたときにも生じており「オランダ病」の名前でも知られています。アフリカ諸国のさらなる不幸は、この事象が政治的に成熟する前に起きてしまったことでしょう。

その影響を政治的な面からも見てみましょう。

産業への投資とは、なにも工場を建てたり港湾を整備することだけではありません。安定した電力の確保や、輸送に使う道路の舗装、労働者を働かせるための医療や教育水準の向上など、全て広い意味への「産業への投資」になります。

通常の国では、労働者がゴキゲンで働けないと、税収は悪化し国家経営が成り立たなくなります。そのため為政者側も、なんとか民衆の心を引き止める必要もあります。そうしたサイクルの成り立つ国では、民意を得られない政権は維持できないため、ある程度民主的な国家になります。

ところがどっこい、資源による収入があると税収による歳入がなくとも政府が運営できてしまいます。そうなると、財政的には民衆の声を反映する必要がなくなってしまいますね。

正常な民主主義が機能しなくなれば、政府高官は私腹を肥やすことに腐心します。資源の権益に関わるマネーが動き続ける限り、いくらでも海外から袖の下が届きます。懐に入れたお金が、貧困にあえぐ国民を尻目に、無駄遣いに充てられるくらいならまだ可愛らしいもんです。そのお金で手に入れた銃弾が、反対派の国民に向けてプレゼントされるため、いまの状況があります。

改めてみてみると、一定程度の教育水準の国民を必要とし、大量の雇用を生み出す製造業の存在は、民主主義的な国家を育てるためにも非常に重要な役割を果たしていることが良くわかります。

比較優位論の落とし穴

こうした事象を見ていると、国を超えて自由な貿易ができるようになったグローバリズムにもその責任の一端はあるんだろうなあって思えてきますね。

リカードの提唱した「比較優位論」は、いまでもグローバリズムを推進する論拠のひとつになっています。確か、高校の授業でも習う基礎的な経済原理のひとつですが、ど忘れしちゃった人のために書いておきますと、こんな感じの話です。

教授は1時間で5ページの論文を書くことができて、助手は1ページも書けない。一方、教授は1時間で20枚の事務資料を処理することが出来るが、助手でも15枚は処理できる。

両方とも教授がやるのが早いっちゃ早いけど、時間は有限なので、お互い1時間ずつ働けない場合、どうするのが最適なのか?そんなの簡単ですよね。教授が論文を書いて、助手は事務資料を処理すれば良い。相対的に考えて、自分がより得意なことに特化することで、みんなハッピーになるのだ!というのがこの比較優位論の基本的な考え方ですね。

でもね、この話モヤッとしませんか?

ずーっと教授が論文を書いているなら、この助手はいつになったら教授と同じレベルで論文がかけるようになるんでしょうね。

たしかに分業で利益は最大化されるかもしれない。でも資源産業に頼った国は、高度な産業を育てるチャンスが得られず、いつまで立っても同じ低付加価値の産業に従事するしか無い。その結果、民衆は政府に対抗できるような力を得ることができず、腐った政治はいつまでも変わらない。

グローバル化する社会で機能する税制を作れるのだろうか

もちろん先進国もただ指を咥えていただけではなく、政府が「ちゃんとやる」ことを条件とした資金の融資を、国際開発金融機関が中心になって進めてきました。ところが本書で何例も出ているのですが、その多くが色んな形のブラックマネーとして闇に消え、いまも行方知れずの状態です。

またそれで国内産業がきちんと育ったところで、政府が税収として確保できるのかと問われれば、それもまた難しいのが現状です。

例えばある製品をA国で50円で製造し、B国で100円で販売するようなケースを想定しましょう。このとき、両者にそれぞれ法人を持っている企業Xは、両者の取引価格を自由に決められますね。売価を60円にすれば、A国の会社が10円、B国の会社が40円の利益になりますし、売価を90円にすれば、A国の会社が40円でB国の会社が10円の利益になります。

じゃあ税率の低い国で利益が出るようにしますよね。極端な話、B国の税率が0%なら、売価は50円にして全部B国での利益にしてしまえば、税金を払う必要がなくなります。

まあそうは問屋が卸さないわけで、移転価格税制といって、外部の企業との取引をしたのと同じような金額にしろよ!!というルールはあります。まあでも素人目にも、そんなものが難しいのは分かりますよね。

また価格だけでなく、顧問料だと貸し付けた資金の利息だの、グローバル企業は色んな方法で税率の高い国から低い国へ利益を付け替えられる方法を編み出します。そうしてグローバル企業に奪われた税収は、アフリカへの支援額とほぼ同額だという研究もあるそうです。

結局、利益に対する課税というのが、グローバル化で難しくなってきている。それに対応する形で、世界的にも直接税から間接税へのシフトが進んでいます。実際に消費活動が行われる先進国で、消費地課税主義を掲げて消費税を徴税すれば、法人税よりも確実に取りっぱぐれなく徴税ができます。

一方で、それを輸出する途上国はどうでしょうか。

先進国に大半の利益を持っていかれた後、残ったミソッカスみたいな利益からひねり出された給料で行う消費活動に対して課税したところで大した税収にはならんでしょう。こんな環境下で「資源に依存しない経済を」と言われたところで、それで国家を回していくのってやっぱ無理じゃね?と見える気がします。

格差は民主主義を破壊する

ここまでは遠い外国の話かもしれませんが、翻って日本の環境を見てみましょう。

日本という国が大変幸せだったのは、第二次世界大戦で一旦国民全員がキレイに仲良く貧乏になったことでしょう。

  • 資産税
  • 農地開放
  • 財閥解体
  • 預金封鎖

などを経て、日本は社会主義国家もびっくりの平等な国になりました。今回借りたもう一冊の本の中にも有りましたが、資産に大きな格差がなく、国民全員が比較的同程度の所得水準であったことは、奇跡とも言われる国民皆保険制度・国民皆年金制度を作る原動力ともなりました。

教養としての社会保障

教養としての社会保障

 

しかし近年の環境はいかがでしょうか。

格差が格差を再生産していることは、もはや誰の目にも明らかになりつつあります。経済的にだけでなく、このままでは政治的にも、声の強い人がますます声を強くしていくことになりかねません。

アフリカの問題の少なくとも一部は、当人たちの自己責任などではなく、システム化された問題なのです。特定の人に富が集中するようになれば、我々はアフリカの現状を対岸の火事だと思えなくなる日が来るかもしれません。

そうならないように、日々アンテナを高く、そして声を大きく生きていかねばなあと思う次第であります。

ではでは今日はこのへんで。