こんにちは、らくからちゃです。
昨日も今日も、朝から、例の新幹線での事件の話題でもちきりですね。まずは被害に遭われた方や、巻き込まれた方には深くお見舞い申し上げます。
でね。いつもの如く、マスコミの報道の仕方には、首を傾げるところがいくつかあるんですけど、いちばん意味がわからないのが『事件の翌日には容疑者(とされている男性)の日記』のようなものが、テレビで直筆そのままの形で報道されてることなんですよね。
そもそも、推定無罪の考え方のもと、実名報道が必要なのか?そこから議論していかにゃあならんと思うんですが、そこは敢えて踏み込まないことにしておきましょう。ただね。公開を意図していない本人の日記がテレビで堂々と公開されてるのって、ちょっとおかしくない?
わたしが知りうる限り、日記やメモと言われるものの内容は、事件翌日の日曜日には既に報道されていたような気がします。
同居している親族が提供したものらしいのですが、とてもこの期間の間に、本人の許可が取れたとは思えないんですよね。
例えば、全世界に向けて実名で発信されているフェイスブックの内容なら分かる。本来は身内同士で見られることは前提だけど、一応他人も読むことのできる卒業文集も、まだ分からなくもない。
でも明らかに、個人の考えを綴ったと思われるノートが、こんなに堂々と何の制約も受けることなく、報道されているのって法的に問題ないもんなんでしょうか。本来、たとえ捜査関係者であっても不必要に覗き見してよいもんじゃないでしょうに。あと、周囲の人なら誰でも知っているような、本人の来歴ならさておき、本人の蔵書がダダ漏れになってるのも、どう考えてもおかしくない?
仮にだけど、おいらが何かしでかしたら、この『ゆとりずむ』も、"◯◯容疑者が更新していたブログです。"とかいって報道されちゃうん?書き溜めてる、ドン引きされるかもしれないボツ下書きとかも晒されて、ワイプの芸能人に顔をしかめられるん?
容疑者の生い立ちとか、犯行に至った動機とか、そういう話の"ウケ"が良いのは分かりますよ。野次馬根性にしか思えなくとも、こうした事件から世の中を考え直すことにも、何らかの意味もあるでしょう。
ただ流石に、公共の電波を使って流すことじゃなくね?
今回、新幹線のシートが外れることが役にたったみたいだけど、アレってどこを引っ張ったら外れるのん?とか、マスメディアが本当に伝えるべきことって、そういうことじゃない?
今までずーっと事件報道と呼ばれているものについては、気味が悪いなあと思っていましたが、今回のは、個人的にはもう見てられないレベルですよ。
ニーメラーの警句を思い出しますね。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったからそして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
そもそもそれが、例え殺人犯であったとしても、誰かを攻撃する権利なんて誰にもないもんでしょう。そこの過熱を抑えて、冷静に議論できる場を作ることが、"社会の木鐸"の役割じゃないんでしょうか。