ゆとりずむ

東京で働く意識低い系ITコンサル(見習)。金融、時事、節約、会計等々のネタを呟きます。

雪かきと消防団から考える住民自治

こんにちは、らくからちゃです。

毎日、鉄の籠に入れられてコンクリートジャングルの間を行ったり来たりする生活をしていると、『あー、なんにもないけど毎日風の匂いの気持ちいい地元に帰りたいなあ』なんて思う時もあります。そんなことを思っていたところ、こんな記事を見つけました。

何をして欲しいかって聞かれたら、そりゃあ色々と夢は膨らみますよね。コメント欄を見ていても、結構色んな意見が出てきて面白いですね。ただ、よくよく考えてみるとこの一連の話って、

  • 都市部と地方部との住民自治の異質性と同質性
  • 行政が取り組むべき課題と住民自治で解決すべき課題
  • 多くの人(特に若者)を住民自治活動へ参加させるには

などなど、様々な論点が含まれているように思います。ちょっとおもしろいなあと思ったので、色々と書いてみたいと思います。長くなるかもしれませんが、お付き合い頂ければ幸いです。

雪かきは誰の責任?

 日々忙しい皆さんは、そろそろお忘れかもしれませんが、2014年の2月、関東地方は大変の大雪に見舞われました(平成26年豪雪)

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この写真は、2014年2月9日の大雪の日に撮ったものです。

わたしが育ったのは、年中暖かく冬場もカラッとした空気の瀬戸内海式気候を地で行く神戸の片田舎。雪なんて、降っているところを見ることですら、年に片手で数えられる程度ですし、ほんの薄っすら積もることすら数年に一度でした。

ですので、これだけたくさんの雪を、観光地以外で見たのは生まれて初めてのことでした。この写真には、空き地の新雪を踏みしめる幸せな26歳会社員(当時)の無数の足あとが見て取れます。家内からは、『そんなに雪が珍しいのか』と奇異の目で見られましたが、ばったんばったん寝っ転がって跡をつけたりして楽しませて頂きました。ええ。

普段、接することの無い立場の人間からしてみれば、雪は楽しい存在ですが、実際にこれだけ積もると色々と後始末が大変ですね。近所のスーパーまで行こうと、車一台通れるかどうかの路地に入った時に、道路に面した家のひとが、汗を拭いながら雪かきをしていました。

わたし『大変ですね〜』
おっちゃん『 ほんとだよー。こんなに降るとは思って無かったから急いでシャベル買いに行っちゃった』

全く面識は無かったのですが、話しかけてみると、大慌てでホームセンターまでシャベルを買いに行ったとのこと。

おっちゃん『もうどこもシャベルは売り切れだよ〜』
わたし
『もうずっとやられてるんですか?』
おっちゃん『いやー、30分くらいかな。でも、ちゃんとしておかないと危ないからね。お兄さんも足元気をつけて。』

そのあと二言三言言葉を交わしたあと、そのままスーパーに向かいました。途中では、この街にこんなに人が住んでたんだ!と驚くほど多くの人が、子供から年寄りまでめいめいの『得物』を持って雪と格闘していて、すごい光景だな、と思ったことを覚えています。

おっちゃんに労いの缶コーヒーでもお渡ししようかしら、なんて思いながら帰ってきた時には、もう既におっちゃんも雪も姿を消していました。綺麗に雪が退けられた道を通って、初めて『雪かき』の効果を体感するんですね。除雪された部分は、歩きやすく、そして凍った道路に足を滑らすことは有りませんでした。

ただ、そもそも、自分の家の前だからといって雪かきをする義務はありません

自宅の前の雪かきは、本人の利便性に直接関係する部分を以外は、あくまで住民の『善意』として 行われています。この街は、特に普段から雪が多く降るわけでは有りませんし、住民間の交流が活発だという話を聞いたことも有りません。うちの近所ではありませんが、当時の状況について共産党の議員さんが当時の状況を写真付きでまとめられていたので記載してみたいと思います。

近所では、住民の協働で雪かきが進みました。私の使っている駐車場周辺は、まずは歩行者用の通路を開通。その後、自宅で休憩をとっていたら、他の方が雪かきを拡大していました。

(中略)

私も雪かきしたり、休んだりを繰り返し、各人が雪かきを進めた結果、夕方には予定調和的?に自動車が通れるくらいの通路ができました。 

ずっと田舎に暮らしていた人間からしてみては、こんな住民交流も少なそうな都市部でも、きちんと住民の協力による災害への対応が出来るんだなあと驚いた覚えがあります。

勿論、行政で対応できるだけの余力があれば、それに越したことは無いのですが、あまり雪がふらない地域で除雪車を維持管理するだけの余裕も有りませんし、あったとしても対応可能なエリアや時間については限界があります。

大規模な災害時には、どうしても自衛隊やレスキュー隊の活躍が注目を集めますが、地元住民による自主防災が大きな成果を収めている例も多く見られます。そんな無数の例の中から、阪神大震災発生時における、神戸市と西宮市での消防団の働きについてみてみたいと思います。

神戸と西宮の差を分けたもの

そもそも消防団とは、(少なくとも建前は)住民有志の参加による自主的な消火組織です。主に、農業従事者や自営業者等を中心として組織され、火災の発生時に現場にかけつけ、初期消火や住民の避難誘導などの役割を担っています。いわゆる『消防士さん』とは異なり、常勤の公務員ではなく、休日の訓練や出動の際に若干の手当が支給されるという仕組みです。

最近は、消防操法が無駄だとか、年寄りによる若者いびりがひどいとか、いい加減スーパーコンパニオン付きの慰安旅行はやめるべきとか、そもそもあれなんかの役に立つの?とか、逆風も強い消防団ですが、こと大規模災害時には大きな役割を果たしてきました。

早くから都市化が進み、職住分離が進んだ神戸市では、平日は団員が不在のことも多く、消防団員を機動的に運用することは困難となりました。加えて消火にあたり専門的な技能が必要となる大規模な建物や住宅密集地が多いため、職業消防士の拡充に力を注いだ結果、計画的な都市開発の成果もあり消防団の力に頼らずとも、迅速な消火活動が行えるようになりました。

この結果を受け、神戸市では以下の決定を行います。

  • 消防団の定員の削減。
  • 西・北区以外の市街地では、消防団は消火活動は行わず、消防隊の補助活動にあたる。
  • 市街地では消火活動を行わないため、ポンプ車を廃止する。

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これは、専門的な職業集団にリソースを集中し、機能性と行政コストを削減するという観点からは非常に合理的な選択でした。その一方で、消防団は、自前のポンプ車を持つことすら許されず、『補助』としての扱いを受ける事になりました。こういった状況に抵抗し、東灘区・垂水区では、住民自らの意思と負担でポンプ車の維持を選択したのですが、それが震災時に思わぬ活躍を見せます。

神戸市の近代化された消火体制は、常時においては高い合理性を持っていました。一方、この体制は通常時の処理能力を前提に設計されていたため、震災という非常時においては、その限界を露呈することになります。

震災当時、大規模な火災が起きた長田で罹災した消防団員の手記の写しを記載致します。長くはなりますが、当時の団員の状況を知ることができる第一級の資料だと思いますので、記載させていただきたいと思います。

「地震が起きた時、ちょうどわたしは一階の居間で寝ていました。一瞬何が起こったのかわからず、備付けの防災無線から“長田管内、川西通○○丁目で建物火災発生”との無線が流れていた。

長田消防団第7分団部長のわたしは早速、へルメットと手袋、長靴、懐中電灯を手にし、火災現場に向かおうとした。とその時、娘から “お父さん、たいへん火事や”と叫び声が聞こえた。

すぐ表に出てみると、鷹取商店街の北側にある家々は将棋倒しのように倒壊し、瓦磯の間か ら、“助けて”との叫び声やうめき声があちこち から聞こえてきた。この光景を見た途端、今回の地震のすさまじさが全身に伝わって来た。どうやら火災現場は若松通10丁目付近だと思うが、本通りは倒壊家屋の山となり、行く手を阻まれている。

落ち着いて、今何が大切なのかを考えた結果、人命救助が最優先と決めた。

商店街中程にある菓子店では全壊した2階部分から助けを求める声が聞こえてきた。
危険を承知で、懐中電灯を頼りに2階の窓から瓦磯を取り除きながら、中へ進んでいった。 “今、助けに向かっている”と励ましながら前進していくと、暗闇の中から手が伸びているのが見えた。ご主人の手だ。救出し、再び中へ入っていった。

今度は天井の下敷きになっている奥さんの姿が見えた。元気そうだ。無事外へ連れ出すことが出来、ホットする。

次は、近くの医院に走る。半壊した中から聞き慣れた先生の声がする。“生きている。大丈夫だ" 2次災害を気遣いながら、窓から寝室へたどり着いた。寝巻姿の先生が落下した天井と家具の隙間に小さくなって、救助を待っていた。

この後、近所の人や見知らぬ人たちが徐々に集まり出し、救助の輪が広がり始めた。
商店街西端のある布団店の人が生き埋めになっている、との連絡で至急現場へ向かった。
どうやら、おじいさんと娘の、2人が取り残されているようだ。倒壊した2階建の家の中 は、直径20センチ位の柱や梁などが入り混じり、前進できない。余震の続く中、ノコギリを使っての救出活動を展開した。作業が進むにつれて、我々もいつ生き埋めになるかもしれないという不安が頭を過る。
やっとのことで、2人に近づくことができた。こうしてたくさんの人が一丸となり、救出したのである。しかし喜びもつかの間、火の手が我々に迫っていたのである。休む間もなく、 次の救出現場へ向かう。下半身が柱に挟まって身動きできない奥さんをご主人が必死の思いで助け出そうとしていた。しかし、人間の力では、どうしようもできない。“救助器具さえ、あれば ...”(中略)

時間だけが過ぎていく。奥さんの悲鳴と激痛の訴えが我々の耳に響いてきた。その上、煙と炎がもの凄い勢いで我々のもとへ迫ってくるではないか。逃げ道も危ない状態である。次第に煙で息苦しくなり、焦るばかりでどうしようもない。その時、奥さんが、
“私のことは構わないで、早く逃げて下さい"
と叫んだ。奥さんはもう、ダメだろうと諦めたのだろうか。“諦めずに、頑張れ"
と精一杯声を掛け、何とかして助け出そうと頑張ったが、努力の甲斐もなく、結局何もできなかった。無力感と悔しさで、胸が一杯になり、たまらなかった。 その間にも、火はどんどん大きくなり、私の店の方にも火勢は追ってきていた。
(中略)
早速、私も消防隊とともに消火活動に加わり、長時間にも及ぶ懸命なる消火活動を展開した結果、どうにか延焼をくい止めることができたのである。
残念なことに私の自宅と店は焼失し、何も持ち出せなかったが、家族にはケガはなく、鷹取中学校へ避難している。ただ、消防団員として、11人もの人を助け出すことや、消火活動に従事することがあのような大惨事の中では、私のできる精一杯のことであり、また使命であったと思う

神戸市消防局『雪』 1995年4月号

火災発生当時、長田消防団には消火のための十分な設備は無かったものの、必死で倒壊した家屋の中から救出活動を行っていたようです。勿論、それも非常に重要な事ではありましたが、ここに消火活動ができるだけの機材があれば・・・と思うと胸が痛くなります。

 震災当時の記録をみると、状況が沈静化するまでの3日間、市街地からは大きく離れた西区・北区も含めて、各消防団が消防隊の穴を埋めるべく不眠不休の総力戦にあたっていた姿が見て取れます。

その活動は、消火活動だけに留まらず、警察と協力した防災パトロールなど多岐に渡りました。震災後に、略奪などの犯罪が発生しなかったのは、日本人の『民度』が高かったという理由もあるのかもしれませんが、こういった自主防災組織の役割もかなり大きかったものであると考えられます。

当時、最も被害の大きかった都市部では、消防団に対して十分な装備が無く、消火のための道具を扱いこなす訓練も十分に積まれていませんでした。その一方で、市の指導を無視してまで維持しつづけた垂水区・東灘区のポンプ車が、被災地にかけつけ大きな役割を果たし、地域防災の重要性が改めて浮き彫りとなった皮肉な結果となってしまいました。

 こういった状況と対象的な結果となったのがお隣の西宮市です。西宮市と言えば、涼宮ハルヒの憂鬱の舞台となったことで近年有名になりましたが、作中で毎日坂を登って通学するシーンがあったと思いますが、確かに坂の多い住宅街もありますね。

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(出典:西宮市政ニュースWEB版 2012年7月10日 第1392号 美しい都市景観の形成へ)

また、美しい自然の景観を比較的残したまま、南部の海浜地帯から北部の山村地帯まで、南北に長く様々なタイプの地域を包括した複合的な自治体です。市街地が東西に広がり、国道2号線を中心に比較的よく整備された神戸市と異なり、市消防局でカバーできるエリアに限界があり、地域の消防団の力に頼った防災体制を取っていました。ある意味、市域全体をカバーすることが出来るだけの余力が無かったことによる、苦肉の策でもありました。

ただこれが、震災時に大きなメリットとして浮き上がってきました。震災発生時、市の消防ポンプは15台(可搬式ポンプ14台)であったなか、発生した火災は34件。また、消防局管制室に、発生当日は4,000件もの出動要請が届き『消防車は全車出動しています。近所の人と協力して救出して下さい。火を消して下さい』と言い続けるしかできなかったそうです。それに応えたのが、消防ポンプ38台と小型動力ポンプ12台を備えた消防団でした。地元の地理を完全に知り尽くした消防団は、非常によく機能し、西宮市では(都市の構造に大きな差はありますが)建物の倒壊での死者は大変多かったものの、大規模な火災の発生は抑えられました。

これは、単純に『西宮市が正しく、神戸市が間違っていた』といえるような問題では有りません。両市とも、それぞれの市域の情勢に合わせた最も合理的な防災体制を選択した結果であり、神戸市の体制も『平時』においては非常に強力かつそれを安価に取ることが出来ます。

ただ、神戸市の見誤った点は2つ。大規模な災害時において、対応出来るだけのキャパシティーが予想以上に弱かったこと、そしてかつて切り捨てた『素人集団』の力が予想以上に大きかったことです。

この結果を受け、神戸市では、今まで独自に消防ポンプを維持し続けてきた東灘・垂水にその保有を認めることと、全消防団に小型動力ポンプを配備することを決定しました。ご自慢のポンプ車。かっこいいね!

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(出典:神戸市消防協会 垂水消防団のページ)

きっとこういった備品って、消火活動にただ役に立つというだけではなく、住民たちにとってアイデンティティを示すものであり、ある種の『神輿』のようなところもあるんでしょうね。地域の住民にこういった備品を提供するということは、単純に『備品を提供した』ということだけでなく、『地域の住民の役割を公式に認識する』『防災への参加・協力を依頼する』ことにもつながります。

共同体での活動を最小化する観点からは、田舎よりも人口密集度の高い都市のほうが行政コストも小さくできます。次に、そういった負担分担の最適化について考えてみたいかなあと思います。

参考資料

みんなの街を作るために

こういった住民自治の世界では、よく『自助・共助・公助』なんていい方をしたりもしますが、何でもかんでも行政にやってもらおうとすると大変なコストが掛かってしまいますし、自助だけに頼ろうとすると、ひとりでは対処できないリスクを抱え込むことになります。

都市部であれば、行政効率が高いため、比較的『公助』の出来る範囲は大きくなります。ただ、災害の時のように大規模な動員が急遽必要な時や、地域の祭を運営したりする時のようにきめ細やかな対応が必要な時には、都市部であっても『共助』の力が求められます。

お仕事をしていると、色々な地域の方と接することが多いのですが、博多の人と打ち合わせの日程を決めようとしたら、『その日は山笠休暇なのでちょっと・・・』とか、岸和田の方に打ち合わせに行こうとしたときには、『だんじりがあるからその日は・・・』なんてこと結構あります。

普段、ワンルームで生活し、周囲との交流が全く無い若者には気がつかないかもしれませんが、『ムラの活動』は何も地方部だけでなく、都市部においてもいわゆるジモトを愛する人々によって運営されてきています。

いわゆるそういった『ムラ的なもの』に死ぬ的嫌悪感を抱いている人もいますので、そういった人を首根っこ捕まえて連れて来てやらせるのもどうかなーと思いますが、社会全体として人手が必要なのであれば、少しでも関心のあるひとが参加しやすいような、仕掛け作りは必要なんでしょうね。

ちょっとそこで思い出したのが残業時間が1桁台だったり、有休取得率90%だったりする会社さん。地方の中小企業らしく(?)、地域の活動へは会社をあげて参加し、経営陣一同、みな率先して神輿も担げば、焼きそばも焼いているそうです。話を聞いていると、そういった機会で知り合った人たちから販路を広げているようで、ある種の営業活動も兼ねているようですが、うまく地域と連携しながらお仕事ができているように見えます。特に、自社の若手社員には町内会でもPTAでも消防団でも、なるべく参加せえということを言っているようなのですが、それで上手く行っているのは何個かポイントがあるような気がします。

まず、労働時間が短く職場の理解があること。これはもう大前提ですよね。最近の若者は『ムラの活動』に興味を示してくれなくなったというのは、事実である側面、『参加したくないというより、忙しすぎて出来ない』という人も結構な量でいると思うんですけどね。また、職場の理解も重要な話ですね。

本当かどうか分かりませんが、町内会の仕事は、そんなもん事前に話をしておけばいいもので、『有給』を取る理由には該当しない、なんてことを言っているひともいるようです。そんなことが通じるなら、世の中の会社には労働時間が半分くらいになる会社もたくさんありそうですけどね(笑)。某システム屋さんは、

まず自分と家族の為に働こう。生活が守れない会社に未来はない。
次に世の中のために働こう。社会から求められない会社は必要がない。
残った余力で会社のために働こう。利益はあとからついてくる。

とかなんとか、社長名で通路に貼りだしてあるような会社さんだったので、比較的そういった活動にも参加しやすかったんじゃないかなあと思います。

次に、新しい参加者が入ってきやすい環境であること。なんで新しい人が参加しないののか、参加しても定着しないのかは、『古参』が幅をきかせ、本来の活動とは異なったところにエネルギー割かれているからといったことは結構よく見られる例ですね。

面白いなあと思ったのは、『年長者は敬え、ただ理不尽に感じたことがあればいつでも俺に行ってこい』といってそういった活動への参加を呼びかけているようですが、定期的に若い層を斡旋・供給してくれるという武器があるため、かなり発言権が得られているみたいなんですね。一度、『うちの若いもんをそんな扱い方するんであれば、金輪際、人は出さん!』みたいに激怒した事案があり、それ以降、扱いが大きく変わった団体もあるそうです。

最後に、参加している若者が活動に満足していること。送り込まれていった若者たちは、それぞれその団体に溶け込んでいき、今ではそれなりのボリュームになっているようです。そういった層を中心に、『いい加減、旅行も温泉だのなんだの行くより、体力増強もかねて登山にするとかのほうが良くない?』とか、『もっと、フットサル感覚で参加できるような感じにホームページ変えようよ』とか、『高校に行って活動紹介とかしよう』と『もっとこうしたら楽しくなるはず』若い層を中心に考えているそうです。

当たり前の話ですが、参加している本人たち自身が活動に満足していないと、新しく若い世代が入ってくる訳が有りません。そして、彼らが何を望んでいるのかは、彼らのほうが理解しているでしょう。そういった人たちが、もっと同世代の仲間と一緒にやっていきたいと思うような活動にしなきゃいかんのじゃないかなあと思う今日このごろです。

我が国では、これからますます人口が減少していくことが予想されております。その一方、地震や台風の回数が減るわけではなく、税収の増も見込めない以上、より『共助』に頼る部分は増えていくことでしょう。

しかしそれは、『タダでたくさん使える便利な人材』では無いのです。本人たちは、その活動に参加することで、必ず何かを失うものがあります。そのことを理解しながら、ひとりひとりが真剣に『みんなの街』のことを考えられる状況を作っていく必要があるんじゃないのかなあと思う今日このごろです。

ではでは、今日はこの辺で。