こんばんは、らくからちゃです。
今年は戦後70年ということもあって、各テレビ局も番組作りに気合を入れているみたいですね。個人的に気になった番組はこちら。
小栗旬、松坂桃李、福士蒼汰、有村架純、広瀬すずと、まさにいま引っ張りだこの若手俳優・女優さんたちが戦争について学んでいくという企画のようです。内容も興味深いのですが、わたしが気になったのは同サイトにあったこのグラフ。
戦争を知る世代は、全人口の一割にも満たなくなってしまったようです。私事ではございますが、わたしもここ一年近くの間に、二人の『戦争世代』の祖父を亡くしました。
戦時中、父方の祖父は、満州で偵察機に乗り空から写真を撮る任務にあたっていたそうです。戦後は、理工学部で学んだ後、大学向けの教科書会社で役員を務め、引退後はデジカメで撮った写真を自分で作ったホームページに載せてみたり、戦友会の仲間と全国を遊びまわったりと、なかなかパワフルな爺さんでした。
こういうのに乗っていたそうです
母方の祖父は、戦地は行かなかったものの、某大学工学部の前身となる専門学校で学んだ後、NHKの前身となる組織に就職し、戦地に向けた放送などを行っていたそうです。こちらもまた『メカマニア』で、墜落したB29の部品を持ち帰って研究してみたりと、色々な武勇伝を持つ爺さんでした。
バリバリの理系の二人でしたが、政治や経済についてもしっかり勉強していたようで、幼かったわたしの、
- どうして日本はアメリカと戦争をしようとしたのか?
- どうしてアメリカは、東京ではなく長崎広島に原爆を落としたのか?
- どうして連合国は天皇を裁判にかけなかったのか?
というような質問にも、よく答えてくれました。二人共、色んな戦争の話を教えてくれましたが、揃って語っていたのは、『北欧の工業力と軍事力は凄い』という話でした。そこで、今日は、二人から聞いたことを元に調べてみた北欧の小さな国の戦争とその後の話についてお話してみたいと思います。
枢軸国フィンランド
第二次世界大戦は、連合国と枢軸国に分かれて行われた戦争というところまではご存知だと思いますが、その内訳を説明することは出来るでしょうか?枢軸国と言えば日独伊三国同盟のことで、連合国はそれ以外とお考えの方も多いかと思います。下記は、枢軸国の版図が最大となったときの勢力図です。(注:ある一時期のものを切り取ったものではないので注意)
緑が連合国、青が枢軸国、黄が中立国ですね。基本的には日独伊とその植民地がほとんどですが、それ以外にも
- ハンガリー
- フィンランド
- ブルガリア
- タイ
- ルーマニア*1
雪中の奇跡
フィンランドは、古くからスウェーデンやロシア、デンマークといった大国の支配下にあった国でした。彼らが独立と自治を勝ち取ったのは、1917年のことでした。まだ、建国100年も経たない国なんですね。さて、独立こそ果たしたものの、大国の狭間の中で不安定な状況の中、更に世界は第二次世界大戦へと突き進んでいきます。
東の大国、ソ連は第二の都市サンクトペテルブルクからフィンランドの国境までが近すぎる(約32キロしかなかったそうです)ことを理由に、フィンランド領の2,700平方キロの土地とソ連領5,500平方キロの交換を要求してきます。ソ連曰く『実に控えめな要求』だそうですが、ソ連が渡そうとした土地が『未開の原生林』の一方、フィンランドから奪おうとした土地は人口の10%が集中する重要な工業地帯。到底飲める要求では有りません。
しかし、フィンランドに選択権は有りませんでした。要求が通らないことを知ると、ソ連は一方的な理由で宣戦布告を行い、『冬戦争』と呼ばれる戦いに巻き込まれていきます。さて、冬戦争開戦当初の軍事力の差についてWikipedia上に記載(冬戦争)がありましたが、いまいち数字だとピンと来ないと思いますので、グラフにしてみました。
絶望的なまでの戦力差ですね。
宣戦布告をしたソ連は、『間違って隣のスウェーデンに入らないこと』と兵士たちに言ってみたり余裕綽々。世界の国々も、1週間で決着がつくものと考えていました。
当時、フィンランド軍を指揮していたのは、建国の英雄のひとりで、後にフィンランド人から『最も偉大な人物第一位』に選ばれるマンネルヘイム元帥。
彼は、フィンランド独立以前、宗主国ロシアの軍隊に入隊、フィンランド人ながら大佐まで昇進し、ロシア人よりもロシア人のことを知り尽くした将軍の一人でした。日露戦争へ参戦後、世界中を旅行し見分を広めるなど、中々面白い人物です。その途中で、日本にも立ち寄っています。
さて、彼の評価を見ていると、小国ながらいち早く航空機を取り入れたり、自国の風土に合わせた装備の研究を怠ることない研究家だったようです。また、建国間もないフィンランドにて、『フィンランド軍』を作り上げたのも彼の偉大な功績でしょう。
彼の軍隊は、急な召集にも関わらず伝説的な抵抗を行います。決戦の舞台は、フィンランド中部のスオムッサルミ。攻め入るソ連軍は、2個師団1個旅団の45,000。迎え撃つフィンランド軍は、3個連隊1個大隊の11,000。なんと4倍もの兵力差です。
にも関わらず、自然を味方につけた『スキー部隊』や地形を武器にした戦い方で、900人の犠牲に対し、27,500人を倒し30倍もの戦果をあげます。この戦いで、戦車42両を中心に、数多くの物資を補給することに成功します。ちなみに、こうして敵軍の武器を奪い取ることを鹵獲(ろかく)といいますが、これは第二次世界大戦中、フィンランド軍の不足する軍備を埋め合わせる重要な手段となります。
相手が寄せ集めの部隊であったことや、祖国防衛の士気が高かったこともあったのでしょうが、この戦果は、『雪中の奇跡』としてアメリカ本国に伝えられ、フィンランド支援の世論を形成することになります。
ひとりぼっちの戦い
しかし、その支援はフィンランドには届きませんでした。さて、フィンランドが冬戦争を戦っていた1940年前後の国際情勢を見てみましょう。
当時は、独ソ不可侵条約がまだ守られてたので、ソ連軍はドイツ軍の攻撃を受けずに行動をすることが出来ました。一方、イギリス・フランス軍は、陸上では大きな戦いはなかったものの、本格的な戦闘に備え、物資を融通できる状況では有りません。仮に出来たとしても、海上ではUボートが派手にやっていた時期ですので、フィンランドまで兵員や物資を届けることは大変困難な状況でした。
また、アメリカも真珠湾攻撃前の、なるべくヨーロッパの争いに関わらないようにしていた時期でした。そして、何よりも決定的だったのは、スウェーデン・ノルウェー・デンマークの支援が得られなかったことでした。
さて、今一度北欧諸国の位置関係について確認しましょう。フィンランドまで兵員・物資を送ろうとした場合、大西洋側からノルウェー・スウェーデンの陸路を取るか、デンマークの領海を通ってバルト海経由で届けることになります。もともと、これらの国々は、一つの国だった時代もあるほど、親密なエリアです。皆様御存知のクヌート大王が築いた北海帝国ですね。
スウェーデンは、今でも『武装中立』を国是に掲げています。また、独ソに関わりたくないノルウェー・デンマークもこの時『中立』の立場を取ります。中立を宣言する場合、以下の3つの義務が発生するとされています。
- 回避の義務 直接、間接を問わず交戦当事国に援助を行わない義務を負う。
- 防止の義務 自国の領域を交戦国に利用させない義務を負う。
- 黙認の義務 交戦国が行う戦争遂行の過程において、ある一定の範囲で不利益を被っても黙認する義務がある。この点について外交的保護権を行使することはできない。
よって、北欧諸国が中立政策を取る以上、支援をフィンランドに届けることは不可能でした。かつての同胞たちも、必死だったのです。物資にも兵員にも限界がある中でも、兵士たちはよく戦いました。
コッラの戦いでは、ピクニックにでも出かけるように戦車をぶっ潰す『モロッコの恐怖』ことアールネ・ユーティライネン中尉が、たった32人で4000人のソ連軍を退けます。その彼の部隊に居たのが、『白い死神』こと、有名なシモ・ヘイヘ。
100日の戦いの中で、505名もの敵を倒したことで有名な伝説のスナイパーですね。顎を撃ちぬかれる重症をおい、頭の半分が吹き飛んだとも言われていますが、一命をとりとめ、戦後兵長から少尉まで5階級特進を果たします。
あと、空ではアールネ・ユーティライネンの弟のエイノ・イルマリ・ユーティライネンさんが、『無傷の撃墜王』として活躍します。なんと、437回の出撃中、94機を撃墜しながら、被弾回数はかすり傷を1回だけ。圧倒的に物資の少ないフィンランド軍において、これは助かったんでしょうねえ。
しかし、どんなに善戦してもソ連軍はいくらでも押し寄せてきます。一方、人口にも生産力ども劣るフィンランドは徐々に追い詰められます。そして、他国からの支援が得られないことが明らかになったことを受け、マンネルヘイムは『講和』への道を決意します。副官達は『まだ戦えます!』と徹底抗戦を唱えます。しかし元帥は、『戦える力が残っている今だからこそ、講和を進めなければならないのだ。軍が壊滅した後、どうやって交渉すればよいのだ』と部下を説き、苦渋の決断を取ったのでした。
悪魔との契約
講和の条件は厳しい物でした。産業の中心であり、民族発祥の地でもあるカレリア地方を失うことになります。その中には当時第二の都市であったヴィープリも含まれていました。日本に置き換えて言うと、京都と大阪をいっぺんに失うようなものでしょうか。また、そこに住んでいた42万人が難民となります。
この年、北欧の戦況は大きく動きます。ドイツ軍による北欧侵攻が開始されたのです。
まずはデンマーク。4月9日にドイツ軍がデンマークに侵攻します。電撃作戦によってデンマークはわずか6時間で降伏。両国ともほとんど犠牲を出さずに、王政も守られます。その後、大戦期間中を通して、『抵抗しない』ことを以って、犠牲を出さずに乗り切ります。
次にノルウェー。こちらはデンマークとは対照的に、ドイツ軍の攻撃を受けた後、国王がイギリスに脱出、亡命政府を樹立。国内でも市民がレジスタンス運動を繰り広げ、ドイツ軍に激しく抵抗を示します。
最後にスウェーデン。ヒトラーに抵抗すること無く軍需製品売っていたからかは分かりませんが、侵攻を免れます。ドイツ軍の領内の通行をあれやこれやで黙認していたり、『中立国』としてかなり微妙なラインの行為を取りながら、何とか戦火に巻き込まれないように生き延びます。
結構、この4カ国の当時の『生存戦略』って面白いんですよね。下記の本が中々参考になります。
さてフィンランドでは、病死した大統領に代わり、ある男がその職に就きます。リスト・リュティ、後にフィンランド人の『最も偉大な人物第二位』に選ばれる人です。
彼は、元々弁護士でした。その後、フィンランド銀行総裁などを経て、フィンランドの首相を務めます。顔を見ても分かる通り(?)おとなしそうな人ですよね。戦争開始前は、軍事費を巡って軍部と対立したり、どちらかというと『ハト派』と見なされていた人物でした。実際、彼の取り組んだ教育制度や技術開発は現代フィンランドの競争力の礎ともなっています。
戦勝国ソ連は、大統領選挙にも介入してきます。『こいつならおとなしく従うだろう』と思ったんでしょうね。
でも彼は、黙ってソ連に従うような男では無かった。
講和を結んだとはいえ、ソ連はバルト三国を属領化するなど、その脅威は高まりつつありり、またいつ攻めこんでくるか分からない状況でした。しかし、物資は既に底をついており、何とか体制を立て直す必要がありました。
彼が大統領に就任した1940年、周辺国は誰も助けてくれず、ソ連からは内政干渉を受け、大国はドイツへの対応に忙しくとても相手をしてられない。そんな孤立無援フィンランドに、手を差し伸べてきた国がありました。ヒトラー率いるナチス・ドイツです。
この支援に対し、マンネルヘイムは『大国に頼り切ることは大国に逆らうのと同じくらい危険である。』といって反対しますが、他に打てる手も有りません。当時はまだ、ドイツはソ連の同盟国でもありましたので、軍隊の通過等を認める代わりに、武器を輸出してもらいます。
ところが1941年*2 事態は多くの人にとって予想外の方向へと進みます。ドイツが、ソ連に奇襲攻撃を仕掛けたのです。そしてフィンランド領内にドイツ軍がいた事をもって、ソ連軍が再びフィンランドに宣戦布告を行います。国は、また望まない戦争へと巻き込まれていくのです。
枢軸国フィンランドの戦い
決して自ら望んだ戦争ではありませんでしたが、宣戦布告された以上、戦わざるを得ません。フィンランド側は、これはあくまでドイツの動きとは独立した動きであり、ドイツと同盟関係にはないと主張し、この戦争を『継続戦争』と呼びましたが、世界はそうは見做しませんでした。
イギリスはソ連の圧力を受け宣戦布告します。アメリカも日本との交戦が始まったことを理由に大戦に参加、フィンランドへ国交の断絶を通告します。全く望まぬうちに、フィンランドは枢軸国の一員として考えられるようになるのです。
フィンランドの『戦争の大義』は冬戦争によって失われた領土を回復することでした。これは、早々に果たします。問題は、ドイツがロシア最強の守護神『冬将軍』に勝てなかったことでした。
ドイツは、モスクワ、レニングラード、スターリングラードと次々と包囲戦に失敗します。やがて、ソ連軍は反撃の体制を整え、ドイツ軍を蹴散らしながらフィンランドへも迫ります。事態は刻一刻と悪い方向へと進んでいきました。
これ以上の戦闘は無益と考え、フィンランド政府は極秘裏にソ連との講和に向けて交渉を進めます。しかし、交渉は何故かドイツの知るところとなり、ヒトラーは激怒します。・・・もちろん、両者の分断を狙ったソ連が情報を流したのでしょう。
その後ソ連軍は、フィンランドが取り戻した領土に到達します。ドイツはフィンランドに迫ります。『自分たちと最後まで戦いぬく覚悟があるのか?』と。
これは難しい問いでした。仮にYESと言えば、ここから先、連合国との講和がより一層難しくなります。一方、ここでNOと言えば、迫り来るソ連だけでなく、国内に駐留するドイツ軍とも戦わなければなりません。
リュティの下した判断は、『YES』。
しかし、この判断は戦場の誰もが予想しなかった結末を産みます。(ちなみに、この約束は、リュティ=リッベントロップ協定と呼ばれます)
世界を騙した男
戦いの火蓋は1944年6月25日の6時30分に切って落とされました。決戦の地はタリ=イハンタラ。ここは、湖の多いフィンランドで、大規模な部隊でフィンランド中心部に攻め入るためには必ず通らなければならない道。逆に言えば、ここを失うことは、すなわち敗北を意味するほど戦略上重要な拠点でした。
ところで、このタリ=イハンタラの戦い、映画化もされています。
きっと戦車好きにはたまらない作品なんでしょうねえ。
さて、この戦いでソ連軍の投入してきた兵力は15万。迎え撃つフィンランド・ドイツ軍は5万。比率だけで言えば、冬戦争当時のほうが多いのですが、今回やってきたのは寄せ集めの素人ではなく、ドイツとの戦いの中で鍛えあげられた手だれでした。
また、第二次世界大戦中最強と言われたT-34や、圧倒時な物量をもって攻め込みます。しかし、フィンランド軍もお得意の『鹵獲』で手に入れたT-34で応戦します。その後、解読したソ連軍の暗号をもとに、総攻撃をしかけ、フィンランド軍が決定的な勝利を収めます。
リュティは、このチャンスを逃すことをしませんでした。もちろん、講和のチャンスです。リュティは、マンネルヘイムと今後の方針について話し合います。その場で、初めてマンネルヘイムは、あの協定に仕組まれた『秘密』についてリュティ大統領から聞くことになります。
『あの協定は、フィンランド大統領ではなく、リスト=リュティが個人の名前でサインをしている』
つまり、フィンランド政府が国家として結んだ協定ではなく、リスト=リュティという一個人が勝手に言ったことになっていると言うのです。
彼は、この『詭弁』が通用するのかどうか、学者たちに確認を取っています。学者たちの答えは、『議会の承認を得ず、前大統領が勝手にやったことにすれば、無効と主張することは出来る。だが、フィンランドを欺いた罪はあなた個人が全て負うことになりますよ』と。
また、議会からも反対を受けます。彼一人を犯罪者にしたくは無かったのでしょう。しかし、彼の決意が固いことを知ると、別の意味で猛反対を行います。それは、『大統領が独断で行った』ことにするために必要なことでした。この話を知ったマンネルヘイムはリュティに問います。
『これからどうするんだ。ソビエトは必ず君の死刑を要求してくるだろう』と。
それに、リュティはこう答えます。
「私の大統領としての責務は、官邸の中でも獄中であっても変わることはない。私は自分の運命を受け入れればよいだけだ」
と。そして大統領職をマンネルヘイムに託します。実はこの二人、22歳と親子ほどの歳の差がありました。根っからの軍人のマンネルヘイムに対し、銀行家出身のリュティとは意見が合わないこともあったのでしょう。それでもマンネルヘイムは、外交の舵取りを自分の子どもと変わらない年のリュティに全てを任せます。またリュティも、軍事作戦の面においては、親ほど年上の老将軍がきっと作戦を成功させることを信じてやみませんでした。
これは、お互いを信頼しきっていたから出来た、悲しい嘘でした。
サンタクロースへのプレゼント
さて、連合国との講和は、リュティから大統領職を引き継いだマンネルヘイムが行う事になります。その条件は厳しい物でした。ざっくり言うとこんな感じ。
- 国内のドイツ兵を追い払う。
- 多額の賠償金を支払う。
- 戦争犯罪人を処罰する。
- 首都近郊の土地を租借する権利を持つ。
でも厳しいとはいえ、バルト三国とは異なり、併合されることもなく独立を維持します。結局、リュティはナチスに加担した戦犯として裁かれまず。ソ連側は、当然のように死刑を求めてきますが、それを突き返し禁錮10年の判決を受けます。実際に刑に服していたのは3年間でしたが、その後も政界には復帰せず、隠遁生活を送ります。
さて、大統領となったマンネルヘイムは、国内に残留しているドイツ兵との戦いに直面します。ともに同じ釜の飯を食い、ともに戦った仲間との戦いは、それは悲惨なものだったでしょう。お互いに血を流すことはしたくなかったので、事前に攻撃地点を伝え、損害が出ないようやり過ごしていましたが、それにソ連が怒ります。
そして、嫌々ながらもこの二国は戦いを本格化させる事になります。しかし、投降してきた捕虜は『友人』として、国境を離れるその時まで丁重に扱ったそうです。その後、最後の捕虜を送り出した後、1945年5月8日ドイツ軍の降伏を持って、ヨーロッパにおける戦闘は一応の終結をみます。
マンネルヘイムは、難しい仕事をこなしながら、1946年に高齢と病気を理由に引退。その後、1951年に83歳で亡くなります。彼の死は国葬をもって見送られる事になります。
そして、もう一人の英雄『リュティ』も、1956年67歳のことでした。ここで、フィンランドは、世界が驚く行動を取ります。彼もまた、国葬を以って見送ったのです。勿論、手痛い目にあったソ連は猛反発。それでも、国葬は行われました。
このことについて、アンサイクロペディアにはまるでユーモア欠落症に掛かったような言葉が載っています
まさにサンタクロースの如く、誰にも見つからないよう、「国家の安泰」という、これ以上ないクリスマスプレゼントを、国民全員に享受させたリュティ。国葬は、リュティのプレゼントに救われた国民達からの、最高級のお返しのプレゼントであったと言えよう。時に1956年、スオミの未来を案じ、フィンランドの民を愛した「救国の詐欺師」は、愛する多くの国民に見送られ、その偉大な功績を祝福され、マンネルヘイムの待つ涅槃へと旅立っていった。
めでたしめでたし
↑↑↑ここまでが前置き ここからが本題↓↓↓
歴史と評価
さーて、随分と長々とフィンランドの歴史について書いてみた。はっきりいって、この記事は、詳細の部分について端折りすぎであるし、各種文献やWEB上での言説を切り貼りした『いびつな車輪の再発明』かもしれない。また『歴史好き』には有名な話なので、今更?とは思ったが、ちょっと短くまとめてみれば『何か新しい世界』を広げるきっかけになるかしら?と思い、書いてみた。
さて、ネット上ではこの戦争は、よく取り上げられているテーマである。なので、『フィンランド 冬戦争』とかで適当に検索していただければ、気合の入ったウェブサイトがこれでもかというくらい出てくる。
なおこの件について、個人的に一番分かりやすいかったのは下記である。
文章を読むのが苦手な人は、この件を取り扱った動画もあるので、おすすめしたい。
いずれも、時間泥棒のため、くれぐれもご注意頂きたい。
しかし、こういった英雄は皆『神格化』されるきらいがある。ウェブ上の論説は、みな『これでもか』というくらい、彼らに同情的である。一方、図書館で文献を読んでみると、マンネルヘイムの短気さや、リュティの秘密主義にげんなりした同時代人の証言もぽろぽろと出てくる。
勿論、完璧な人間などこの世に居ない。ただ、一つ疑問に感じたことがある。
何故、リュティを国葬にしたのか?
である。彼が亡くなった1956年は、フルシチョフがスターリン批判を行い、まあまあ良い方向に進みつつある気配はあったが、ソ連は危ない国に変わりなかった。そんな中、危険を犯してまで国葬にする意味はあったのだろうか?もう死んだ人のために、今生きる人の身を危険に晒しても良いものだろうか。
学生の頃は、随分不思議に思ったものだ。
フィンランド人と未来
話は大きく変わるが、現代のフィンランドには、国会に『未来委員会』というものがあるそうだ。
将来的な課題について、取り組むそうだ。
さて、また話は変わるが、フィンランドの代表的な企業といえば、何を思い浮かべるだろうか?
そう、ノキアだ。余り知られていないが、ノキアは今年で設立150年を超える名門企業、国家としてのフィンランドの歴史よりも長い。一時期は、世界中の携帯電話市場を席巻したが、2013年に経営危機を迎える。ノキアはこの国で言えば、トヨタやパナソニックのような位置づけだろう。たしかこれは、東洋経済の端書きかなにかに書いてあったと思うのだが、危機を迎えた彼らは『ノキアの次』を探すことに努力を注いでいたそうだ。『エコカー減税』『家電エコポイント』ではない。
その努力が実ったのかどうかは分からないが、いまフィンランドではゲーム産業が元気だ。わたしもプレイしたことはないが、Clash of Clansは名前くらいは聞いたことがあるし、Angry Birdも同様だ。
彼らベンチャー企業を育てているのが、「テケス(技術庁)」だ。また、民間のイベントである『スラッシュ』には毎回大物が出席する。
そして、これらを足元で支えているのが教育だ。凋落の声も聞こえてくるが、フィンランドといえば『教育熱』の高い国として有名である。ニュースで耳に入ってくるものは『なんだか楽しそうだなあ』といった話が多いが、内情としては『かなり厳しい』教育を行っているようだ。
また、教師も高い社会的尊敬は受けるものの、高い資質が求められ、常に厳しい競争にさらされ、日々切磋琢磨が求められるということだそうだ。よく考えてみれば、教育についてろくな『教育』を受けず参画する日本社会のほうが異常なのかもしれない。
さて、これら政治、経済、教育の3つの事例から共通してくることが見えてくる。それは、『未来』への注力である。この北欧の小国は、常に生き延びるため、『未来』に向かっての努力を惜しまなかった。
国づくりも、産業づくりも、ひとづくりも、一朝一夕に出来上がるものではない。
伝えたいこと
さて、話を戻そう。彼らの心を突き動かした物はなんだったのだろうか。
ソ連が反対しているのにもかかかわらず、ではなく『ソ連が反対していたからこそ』国葬を行う必要があったんじゃないだろうか。ソ連の影響下の中、リュティは『ヒトラーに加担してフィンランドを苦境に導いた人』と喧伝されてきたそうだ。
ただ、同時代の人はそうは思わなかった。きっと、いろいろな評価もすべてひっくるめて、彼を英雄として記録に残すことにしたのだろう。文章や記憶、その背景にある想いというのは、恐らく我々が想像するよりも早く失われていくものだと思う。しかし、『国葬』という記録は残る。その結果、どんなに記憶が薄れていっても、資料が散逸しても、この当時の国民が、彼のことを深く尊敬していたことが分かるのだ。
それは、国家国民のために犠牲を厭わないということがどういうことなのか?国家が危機的な状況に陥った時、どんな戦い方があったのか?それを子どもたちに伝える最善の手段であったのだろう。
実際に、彼のことが再評価されたのは、そう古い話ではない。フィンランド教育省の依頼で、伝記が執筆されたのは1994年、米ソ冷戦終結後、EUに加盟する1年前の話だ。伝記を執筆したフィンランド国防大学のテュートラ博士は下記のように語ったという。
「継続戦争の開戦、ナチスとの取引、戦争責任裁判、服役のすべてがリュティにとり祖国への献身だった。ロシアで権威主義が台頭する中、わが国にとり彼の生きようを検証することはさらに重みを増してくる」
未来の為に、今できることは、過去のことを語り継ぐことである。 わたしの二人の祖父は、何かを一生懸命伝えようとしてくれていたが、それが全て理解できたかというと定かではない。今となっては、『焼夷弾が庭に落ちてきたときの話』や『防空壕の作り方』、なんて話ももっと聞いておけばよかったのかもしれない。
お盆休みの時期なので(わたしは違うが)、もし存命であれば、じーさん・ばーさんの話を聞いてあげて欲しい。わたしの場合、『次に実家に帰った時にちゃんと聞いてやろう』と思っていたら、その次の再会は葬儀場だった。
あと、これから暑くなるので、くれぐれも年寄りには体調を崩さないよう注意して見てあげて欲しい。
ではでは、今日はこのへんで。
続き
*1:id:Shin-JPN様より頂いたご指摘を元に追記 2015/08/15
*2: id:Shin-JPN様より頂いたご指摘を元に修正 2015/08/15 参考:独ソ戦 - Wikipedia